世界的ベストセラー『大聖堂』、日本語版で矛盾発覚…伝説の校閲者が明かした今だから言える大事件
今だから明かせる秘話
矢彦 そう言えば、僕が江藤淳さんの『漱石とその時代』を担当した時の話を漫画で描いてくれてるじゃないですか。 こいし はい、矢彦さんが古本屋を回って古地図を探した話ですね。 矢彦 そう。それで思い出した話が二つあって。一つは、ケン・フォレットの翻訳本、『大聖堂』(上・中・下巻)を担当した時のこと。『針の眼』のように緻密なミステリーを書くのが売りのケン・フォレットが、中世ヨーロッパを舞台に書いた大長編小説が『大聖堂』。その物語の最初の方で、ある人を埋葬するために森の中にお墓を作る場面が出てきた。そこからず~~っと話が進んだ後で、その墓地を探しに行く話が出てくるんだけど、場所を特定されないようにしていたので見つけるのが大変だったという記述があった。だけど、おかしいなと思ったんだ。最初の方では、目印になるようなものを作ったと書かれていたのを思い出してね。その矛盾を伝えたら、翻訳者の矢野浩三郎さんがびっくり仰天して。翻訳の間違いではなくて、原文がそうなっているのだとわかった。 こいし え、それでどうしたんです!? 矢彦 矢野さんが現地の人を通じて確かめてくれてわかったのは、元々ケン・フォレットは目印を作ったという設定で書いていた。だけど、作中の時代に、領主とか身分のある人の埋葬場所をわかるようにするのは御法度で、絶対わからないようにしていたと学者か誰かから聞いたらしい。それで、後ろの方は直したんだけど、初めの方は忘れてそのままになっちゃった。 こいし うわー! 誰も気づかなかったんですね。 矢彦 そう。それで矢野さんがわざわざ新潮社に来てね。「ケン・フォレットさんがびっくりしてたよ」っていうのを直接僕に伝えてくれた。イギリスで生まれたベストセラー小説が、遥か海を渡った極東の地・日本で、いち校正者の気づきにより改良されるのは何と不思議な話であろう……って感謝されましたね。 こいし そんなのどうして気づいたんですか? メモってたんですか? 矢彦 もちろんメモりますよ。ただ、これに関してはメモというより記憶だね。確か墓場はわかるようにしたって書いてたよなって思って、最初の方に戻って読んでみたら当たりだった。 こいし 最初にその場面を読んでから、後で出て来る場面を読むまでにどのくらいの時間が空いてたんでしょう? 矢彦 文庫3巻分あるからね。そんなすぐじゃなくて、一ヶ月とか、もっと空いてたかもしれない。同じような話がもう一つあってね。これも有名作家で、ジェフリー・アーチャーの『ロシア皇帝の密約』という作品があります。イギリスの元軍人とソ連のスパイの攻防を書いた非常に面白い内容で、細かい時の経過が重要な、これも緻密な小説。この翻訳のゲラで、途中で丸一日飛んでいるというか抜けている日があることに気づいたんです。 こいし えぇ~なくても読めてしまうけど気づいたってことですよね。それはどうやってわかったんですか? 矢彦 読みながら何月何日に何が起こって、次の日は……ってメモして行きますからね。それで翻訳者の永井淳さんに知らせたら、これは大変だってことになって。それで、こちらでうまく直して、ジェフリー・アーチャーには後で報告する形が良いということになり、僕も案を出して永井さんも一緒に考えて、何とか一日誤魔化せた。 こいし それってもう校閲の仕事超えてますよね!? 日にちをいじって何とかなったのがすごいですね。つまり、『ロシア皇帝の密約』は日本語版が完全版ってこと!? 矢彦 そういうことでしょうね(笑)。まぁ、そのままだったとしても、普通に読めてしまうので誰にも気づかれなかったかもしれないですけどね。ただ、もし時系列に従って内容をメモして読むような人がいたら、おかしいじゃないかと思うわけで、そこはやっぱり正すべきだと思いましたね。この二つは僕も楽しかったし、校正者をやってて良かったとつくづく思いましたね。