ゴーストタウンから若者の聖地へ…大阪「味園ユニバース」が“ナンバの魔窟”となったワケ。映画のロケ地としての歴史も解説
オイルショックでキャバレー人気低迷、総合ビルへ
しかし1973年、第一次オイルショックが起き、高度経済成長が終わりを告げる。不況の中、ダンスフロアやステージを必要とするキャバレーは、そのおおがかりな設備があだとなり、維持に苦しむように。さらにカラオケが徐々に普及し、時代に合わず窮地に立たされる。 しかし、オーナーの志井は、この時代の流れも先読みしていた。1972年から数年かけて改装に打って出ていたのである。それは「レジャー総合ビル」への道! 彼は次のような工事を行った。キャバレー「ユニバース」は地下へ移動。2階から4階の吹き抜けだったのを一階ごとに床を貼り、2階にスナック街を作った。ホテルの客室の内装は、一部屋ずつイメージが違う内装にしているという凝りようだった。サウナと大浴場も造り、サウナは鍾乳洞っぽい雰囲気に仕上げた。 5Fの「宴会天国味園」はそのまま。ここは500人を収容でき、バブル期は接待の場としても喜ばれ、毎日3,000人もの客でにぎわったという。 飲んでヘロヘロになってもホテルに泊まり、大浴場でのんびり。飲み足りなくても2階にいけばスナックが併設しているのだから、おおいに楽しめたことだろう。
若者が集うサブカルの聖地へ
しかし、時代の流れは容赦ない。80年代後半にはディスコが全盛となり、キャバレーはさらに下火に。加えて1990年代半ばから長期化した不況にも泣き、2階のスナック街は、テナントフロアの大半が空き物件、半ばゴーストタウン状態となってしまった。大浴場とサウナも閉鎖となっている。 しかし2000年半ばごろから、味園ビルに活気が戻る。大人の歓楽街だった千日前はタウン情報誌などの流行もあり「裏なんば」と呼ばれるようになり、レトロな雰囲気を求める若者たちから注目が集まるようになっていったのだ。 さらに運営側がテナント料を下げたことにより、空きだらけだった味園ビルのテナントに、ユニークなテーマをもってバーやギャラリーを始める人も増えていく。そうしていつしか、尖った歓声を持つ若者たちの、サブカルチャーの発信地に変貌していった。 ただ、残念ながらキャバレー「ユニバース」は時代の変化を乗り越えられず、2011年に営業終了。独特の宇宙を表現したインテリアはそのまま残し、貸しホールとして生まれ変わった。 独特のアンダーグラウンドな雰囲気を活かしたライブやイベントが開催され、こちらも人気となっていく。筆者も何度か訪れたが、惑星のようなライトがきらめき、アーティストの音楽やパフォーマンスとからまって、自分がどこにいるのかわからないような、不思議な気分になったものだ。