身辺雑記でも読書エッセイでもない「ふわふわ浮かんでくる」言葉の冒険(レビュー)
一篇ごとにだれかの文章が引用される。流れゆく思考のあいまに他者の言葉がふいに浮かぶような具合で、どこにどの本が出てきたか忘れてしまう。巻末の「引用書籍一覧」を見て、そうだったと思いだす。 後半にいくほど付箋をつけたい箇所が増えていく。「わたしの日本語」は十年あまり本を読まずに過ごし、いきなりその日々が終わったいきさつが述べられる。十年も本を読まなかったのは、著者がフランス在住で日本語の環境にいなかったから。 ところが高山れおなの句集『俳諧曾我』に出会っていきなり俳句を詠むようになる。つまり肩書きは「俳人」だが、内容はその範疇に留まらない。日本語を外から見つめずにいられない切実さや、周縁に身を置くクールな視線が随所にあふれる。 漢字、ひらがな、カタカナの表記が混在する日本語には論理の断裂があると書く。それは自分自身のなかを走る断裂でもあるとも。 「異物を縫い込み、消え去ることのない大きな傷あとを抱えて生きのびてきた日本語。わたしはその落とし子であり、それとそっくりな姿に育った。わたしはそれを愛しつつ、愛しきれない」 日本語はロゴスが目指す永続性や堅牢性と無縁できたが、彼女によれば、「ひとは考えようとして考えはじめるのではない。それは勝手にふわふわ浮かんでくるのである」。 まったくその通りだ。思考や想像は生命活動の一部として自然に生成するものであり、ルールで縛りつければ人間から離れてしまう。 「クラゲの廃墟」は海で溺れたヒヤッとする体験に触れながら、生命のふるさとである海の懐かしさに包み込む。身辺の出来事から、いにしえへ、深い海の底へ、宇宙の彼方へと自由に飛翔するさまが魅力的。 こういう文章に身辺雑記を連想させる日本語の「エッセイ」は似合わない。想いつきに従うという意味の「随想」こそがふさわしい。 [レビュアー]大竹昭子(作家) おおたけあきこ1950年東京生まれ。作家。小説、エッセイ、批評など、ジャンルを横断して執筆。小説に『図鑑少年』『随時見学可』『鼠京トーキョー』、写真関係に『彼らが写真を手にした切実さを』『ニューヨーク1980』『出来事と写真』(共著)など。朝日新聞書評委員。朗読イベント「カタリココ」を開催中。[→]大竹昭子のカタリココ 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社
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