不倫しない人に「不倫した人を叩く権利」はあるのか…人様の家庭に物申さずにいられない人たちの正体
■「世間」を装って意見を述べ続ける不気味さ 彼を許さないのは一体何なのか、何かわからないものによって断罪され続ける彼を「世間」の言うままに冷遇する会社は一体どこを向いているのか、昭和オジサンとともに視聴者もまた腑におちずに立ち止まる。 有名人だから仕方がないのか、という気分になってくるうちに、不倫アナウンサーに手厳しい対応をしていたコンプライアンスにうるさいテレビ局幹部が、ホームパーティーに主人公を誘う。そこで繰り広げられる光景は、まさに現代の不倫夫と「世間」の関係の縮図であった。 要はテレビ局幹部は大昔、妻を裏切り妻の友人と浮気をしてしまったという過去がある。夫婦間の会話や家庭の雰囲気を見れば、妻とはすでに向き合い、2人の間の問題は解きほぐされているようである。しかし年に1回やってくるという妻の友人たち、そしてその夫たちは彼の過去を許す様子も彼の言葉を信じる様子もなく、未だに熱量高く怒り、彼を批判・断罪し、説明や謝罪を要求し続けている。 「妻の気持ち」を代弁している風を装う彼女たちは実際は妻の制止も聞かず、無関係な立場から彼の行動の愚かさや間違いを指摘し続けるのだ。 ■「異常な人」から見た「フツウの世界」 思えば少し似た光景を描いた女性作家による文学作品があった。綿矢りさの短編集『嫌いなら呼ぶなよ』に収録された表題作、「嫌いなら呼ぶなよ」である。 同書に収録された四つの物語はいずれも、「異常な人」が主人公であり語り手である。それも、自意識がすごいとか面倒臭さがやばいとか、ある意味純文学の主人公としてはステレオタイプだけどその異常さこそ才能とか言われていそうな異常さではなく、現代社会に蔓延る異常さとしてネット空間や週刊誌で名指しされているような凡庸な異常さである。 社会の、特にネット社会で大人数のように見える「正常な人」に「異常だ」と後ろ指を指され、時に言葉で分析され、取り締まられ、排除されそうになるような人。バレバレなのに浮気がやめられないヤリチン夫、さりげないカジュアルファッション全盛の今ロリータ服を着てプチ整形を繰り返しカワイくあることに命をかける女、気になるユーチューバーに粘着して応援と称して誹謗中傷コメントを書き続けるファン。 通常は「世間」や「ネット警察」や「普通の人」に、眼差される側にいて、私のような迂闊な文章屋などに、こういう人最近いるよね~現代の闇だよね~と書き立てられて、根幹にあるのはズバリ男根コンプレックスなのです、とか、想像力の欠如をもたらした教育政策の失敗が生み出したのです、とか、ルッキズムに毒された社会の被害者なのです、とか勝手な社会批評の種にされがちな彼らが、ここでは世界を眼差す側に立っている。普段彼らを異常だと指差している世間が彼らの目に映る。 あちらから見れば「フツウの世界」は実に歪で、「フツウの世界」が信じ込んでいる正解には何の根拠もなく、しかも自分らは多数派でまともなのだという最高の盾でもって安全な場所から、イノセントなままに人を傷つける。読者は異常な人の異常な思考回路につい納得してしまううちに、パラレルなワールドに一瞬だけ誘い込まれている。