摂関家の“呪い”に狂わされた皇女の悲劇 入内しても愛されず孤独に過ごした生涯とは
■摂関家の「切り札」となった後一条天皇の皇女 藤原道長が成立させた「一家立三后」によって、外戚として盤石の地位を手に入れた摂関家。道長の死後は、長男の頼通と長女で太皇太后として君臨した彰子が摂関政治を展開した。 しかし、「天皇に娘を入内させて外戚としての権力を握なければならない」というある種の呪いのようなものに囚われた一族は、ここから徐々に凋落への道を歩んでいくことになる。今回は斜陽の摂関家の思惑に振り回された1人の皇女の生涯を取り上げる。 主人公は後一条天皇の第2皇女として長元2年(1029)に誕生した馨子(けいし/かおるこ)内親王である。母は道長の4女・威子だ。後一条天皇は道長の長女・彰子の息子なので、馨子内親王は道長の孫と娘の間に生まれた、摂関家の血を濃く受け継ぐ姫だった。 後一条天皇には威子以外に后がいなかったが、それも外戚の地位を他家に譲りたくないという頼通と彰子の思惑あってのことだった。そのため、唯一の后だった威子は生涯「皇子誕生を」というプレッシャーを背負うことになる。万寿3年(1027)に章子内親王が誕生し、「次こそは必ずや皇子を」と全方位から期待されるなか、生まれたのが馨子内親王で、これに対して摂関家の面々は落胆し、宮中の人間の反応も冷ややかだった。藤原実資は宮中の反応を「宮人気色太以冷淡」と日記に書き残している。 とはいえ、母威子からは深い愛情を注がれた。3歳のときに賀茂斎院に選ばれた後も、威子は度々娘のもとを訪れている。この点でいえば、伊勢斎宮として遠く離れた地にいた姉の章子内親王に比べて、母の愛を身近に感じながら育ったと言えるだろう。もしかすると、この頃が最も幸せだったかもしれない。 馨子内親王にとっての最初の悲劇は、両親を早くに亡くしたことだった。長元9年(1036)、父の後一条天皇は29歳で崩御し、半年も経たないうちに母の威子も疱瘡で世を去ってしまった。この時馨子内親王は8歳だった。 その後姉妹は彰子のもとで養育されることになった。彰子にしてみれば、妹の忘れ形見であると同時に、摂関家が外戚としての地位を維持するための重要なカードでもあった。 永承6年(1051)、23歳になった馨子内親王は、彰子の意向で東宮・尊仁親王に入内する。この時尊仁親王は18歳だった。ちなみに、尊仁親王の母は三条天皇と道長の次女・妍子の娘である禎子内親王だった。 禎子内親王は道長の孫ではあったものの、頼通や教通に冷遇されており、摂関家との関係は悪化していた。それゆえ、馨子内親王の入内は決して歓迎できるものではなかった。その上、尊仁親王には藤原茂子という后が既におり、しかも第一子・聡子内親王が誕生した直後の入内だった。 尊仁親王は茂子を寵愛しており、皇子1人、皇女4人をもうけていた。身分が低いことから女御等の地位に就くことはできない茂子だったが、深く愛されていたことがわかる。ところが、茂子は尊仁親王が即位する前、康平5年(1062)に亡くなってしまった。 馨子内親王はというと、茂子の死から約2ヶ月後に待望の皇子を出産。摂関家は待ちに待った皇子誕生に沸いたが、残念ながら数日で夭折してしまった。この時馨子内親王は既に34歳、当時からすれば高齢出産に分類される。母体へのダメージも大きかっただろう。その後皇女(生年不詳)を出産したが、その時も夭折している。 治暦4年(1068)、40歳の時に尊仁親王が後三条天皇として即位し、翌年中宮に冊立される。『栄花物語』では、「お姿も、また心映えも素晴らしく、後三条天皇も高貴な后である馨子内親王を大切になさった」と書かれているが、あくまで中宮として丁重に扱った、という程度であろう。実際、後三条天皇は茂子の死後に源基子を深く寵愛し、2人の皇子をもうけている。 この源基子は、三条天皇の皇子・敦明親王の孫にあたる。敦明親王といえば、かつて道長の圧力もあって自ら東宮の座を辞退した皇子だ。なにやら因縁を感じる構図である。 中宮になっても、肩身の狭い思いをする日々だったことは想像に難くない。なにせ夫である後三条天皇のバックには常に義母であり摂関家と険悪な関係の禎子内親王(女院陽明門院)がおり、夫の愛は女御になった源基子がほぼ独占している状態だった。しかも自分には子がいない……。道長から続く呪いのようなものに囚われた摂関家が、身内の姫が少ないことからせめて縁のある姫を入内させてどうにか皇子を産んでもらおうと画策した結果、馨子内親王の人生は大きく狂ってしまった。 馨子内親王は、延久5年(1073)に後三条天皇が崩御すると翌年に皇后宮となり、西院でひっそりと余生をおくった。
歴史人編集部