俳優・佐野史郎さんがメディアで初めてクルマとの思い出を語る! 懐かしの国産旧車、そして少年時代の自分との約束とは
愛車を見せてもらえば、その人の人生が見えてくる。気になる人のクルマに隠されたエピソードをたずねるシリーズ第32回。今回は、佐野史郎さんがメディアで初めてクルマとの関わりを語る。 【写真を見る】佐野さんと思い出のクルマなど(27枚)
佐野家にやって来た最初の自家用車
「いやぁ、これですよ、これ。でも、こんなに格好よかったっけなぁ……。驚きました」 目を大きく見開きながら、佐野史郎さんがマツダの初代「キャロル」に歩み寄った。1962年にデビューしたこの軽自動車こそが、佐野家にやって来た最初の自家用車だったのだ。 しみじみとした表情でキャロルを見つめながら、佐野さんは「実はいままで、公の場でクルマの話をしたことがなかったんですよ」と、つぶやいた。 「この取材のお話をいただいた時も、本当に僕に依頼があったの? と、何度も念を押したくらいです。僕は運転免許も持っていないし、クルマというのは僕の人生において蓋をして封じ込めている存在なんですね」 佐野さんがクルマの話をするというのは本邦初とのことで、なぜクルマという存在を封印してしまったのか、パンドラの箱を開けるような取材となった。まずは、キャロルがやって来た時のことを思い出していただく。 「生まれてからしばらくは、東京の代田橋や練馬の桜台で暮らしていました。小学校にあがってから、父の実家がある松江に移ったんです。実家は病院で、開業医の祖父は当時原付きの自転車で往診に出かけていました。エンジンは付いているけれど、ペダルでも漕げるやつですね。当時は自家用車を持つのは相当なお金持ちで、なかなか手が届かない存在です。父も松江に戻ってからは、最初は『ラビットスクーター』に乗っていたと記憶しています。昭和36~7年のことです」 ラビットスクーターとは第二次世界大戦後、富士産業(現在のSUBARU)が開発したスクーター。1947年に発売されるとすぐに人気を博し、戦後の庶民の足として活躍した。 「戦後まもなく出雲大社の町で写真館を開業した母方の叔父が、スバル『360』を購入したんです。出雲大社から松江まで送ってもらったりして、格好いいなぁ、と、心を奪われました。それに触発されたのか、父親は新しく出たばかりのマツダ・キャロルを入手したんです。叔父がスバルだったのでそれに対抗したのか、より新しいモデルだからキャロルにしたのか、いまとなってはわかりませんが、とにかく父は“新しモノ好き”でした。秋葉原に行って部品を集めてラジオや電蓄を組み立てるとか、写真も好きで母と結婚した時にはミノルタの二眼レフと現像機、引き伸ばし機を揃えていました。当時の写真はいまも残っているんですよ」 こうして納車されたマツダ・キャロルは、佐野家のファミリーカーとして大活躍した。 「母の実家の写真館は、松江から30kmちょっとぐらいにあるんですが、クルマで行くのが楽しみでしたね。両親と弟と、家族4人でいろいろな場所に行きました。少し離れた三瓶山に行ったり、夏は大山の高原でジンギスカンのバーベキューをしたり、地元の白バラ牛乳のソフトクリームを食べたり。僕にとってキャロルは、幸せな家族の時間の象徴でしたね」 マツダ・キャロルについて説明をくわえると、戦前からオート三輪で知られたマツダは、1960年に四輪車のマツダ「R360クーペ」を発表する。そして1962年に同社の基幹モデルとして発表されたのが、マツダ・キャロル360。2ドアと4ドアが存在したうち、佐野家にやって来たのは4ドアだった。 メカニズム的な特徴は、当時としては贅沢だった4気筒エンジンを採用した点だろう。エンジンはリヤに搭載され、後輪を駆動するRR(リヤエンジン・リヤドライブ)のレイアウトだった。ちなみに総アルミ製のエンジンで、当時の世界最小の4気筒エンジンだった。 佐野さんが目を見張ったデザインは、クリフカット(逆反り)のリヤウィンドウなど、フォード「アングリア」というモデルを参考にしたとされる。