東京ガス・石田光宏投手が今季限りで現役を引退 野球と仲間に感謝して歩んだ野球人生
大好きな野球に対して最後まで真摯に向き合い、全身全霊を傾けてきた。やるだけのことはやったのだから、もう悔いはない。懸命に駆け抜けてきた東京ガスでの9年間。石田光宏投手(30)が今季限りで現役を引退することとなった。 「長い間、結果が出ていなかったのもありますし、毎年覚悟というか、いつ辞めてもいいという思いで、1年1年を過ごしてきました。自分の中では出し切りましたし、最後はちょっとすり減るぐらい。ホッとしたという思いもあります」 近江(滋賀)を経て、関大に進学。関西学生リーグでは最速148キロの直球もさることながら、タイミングを巧みに外す投球術で通算30勝を積み重ねた。ドラフト候補にも名を連ねた中、憧れを抱いていた東京ガスから声がかかり入社を決意。プロ志望届を提出することなく2年後でのプロ入りを目指し、2016年から社会人野球生活をスタートさせた。 前評判通り、入社1年目から山岡泰輔(現オリックス)とともに投手陣の中心を任された。16年の都市対抗では2試合に救援し2勝。続く日本選手権の1回戦・ヤマハ戦でもロングリリーフを任されるなど、2年目以降の躍進が予感された。同年にはエース格だった山岡がプロ入り。周囲からの期待が高まる中、より高みを目指し、その年のオフにフォーム改造に着手した。 「1年目はパフォーマンスを発揮できたのですが、翌日のダメージが大きく回復が遅れることが続いた。プロに入るだけじゃなく、活躍するためにはもっと効率よく負荷の少ない投げ方でなければいけないと考えました」 フォームが固まりきらないまま、2年目のシーズンに突入。右肩に違和感を感じながらも強い責任感から登板を重ねたが、右肩関節唇を損傷した。横浜市内の病院で、10月末に手術。だが、懸命のリハビリで翌18年の都市対抗予選には間に合わせ、明治安田生命との代表決定戦では抑えを任されるまでに回復した。最速も自己最速タイの150キロをマーク。何より「手術明けの自分に大事なマウンドを託してくださった監督さんの思いがうれしかった」と当時の山口太輔監督に感謝する。 順調に復活ロードを歩んだかに見えたが、その後は思うようにいかない日々が続いた。「体の感覚的に違うなって感じがすごいあって。良いときと悪いときの波も激しかったですね」。試行錯誤を続けた石田に救いの手を差し伸べるべく、4年目の夏には山口監督が外野を兼務することを提案。送球の際、体を大きく使う外野手としての動きがきっかけになれば、と半年間は二足のわらじを履いた時期もあった。 度重なる故障もあり、心が折れそうになったことは何度もある。自ら引退を申し出ることを考えたこともある。それでも現実から目を背けることなく、来る日も来る日も立ち向かっていけたのはなぜか。うつむきそうになる度、奮い立たせてくれたのは野球に対する感謝の思いだった。 「ユニホームを脱ぐ時、僕の中で自分から辞めるという選択肢はありませんでした。そうしたいと考える場面は何度もありましたが、野球を通じていろんな出会いがあり、なかなか経験できないことをたくさんさせていただいた。野球に対する感謝がある中で、自分がうまくいく、いかないで辞めるのは少し違うかな、と」 入社1年目。都市対抗で初登板した際の、地響きのような熱狂的な応援を、今なお忘れることはない。対戦相手だった三菱重工名古屋には関大の同期・西田尚寛が在籍。代わりばな、その西田を左飛に仕留めたシーンは思い出の一つだ。印象的だったのは、今年4月に行われたJABA京都大会での日本製鉄瀬戸内戦。故障で苦しんだ頃、辛い思いにそっと耳を傾けてくれた父・悟さん、母・恵美さんら家族が見守る前で、1回無安打無失点2奪三振の勇姿を届けることができた。「泥臭く、やりきった感を出すことができたと思います」。学生時代から慣れ親しんだわかさスタジアムだったのも感慨深かった。 「もう一つは、関大の仲間たち。彼らの野球への向き合い方は本当に凄かったなと。彼らの存在が僕の中では凄く大きかった」 絶対的なエースだった大学時代。仲間たちは率先して、石田のサポートを買って出てくれた。その一方で、仲間たちは自分の練習にも手を抜くことは一切なかった。彼らはチーム内で置かれた立場に関係なく、黙々と練習を行い、一丸となって戦う空気をつくりだしていた。試合になれば声をからし、全力で応援してくれた。 「そういう彼らの姿を思い出すたびに、最後まで野球に対して真摯に向き合うことが筋だろうと」 光と影。振れ幅の大きい野球人生だったが、幸運にもその両方を経験することができた。その中で学んだことは計り知れない。石田は言う。 「学べることは全部学ぼうと思っていました。将来的に指導者になりたいので、うまくいかない選手のメンタリティーを経験することができたのも、自分にとってはありがたかったです。会社には9年間もの長い間、勉強させていただき感謝しかありません。いろんな選手の姿を間近で見させていただいたのは僕の財産ですし、選手1人1人、チームを応援していきたいと思います」 取材の最後を感謝の言葉で締めくくったのは、誠実な人柄の表れだった。そんな石田の生き様を、関大はもちろん、東京ガスの仲間たちも誇らしく見つめていただろう。見るものの心を打つ、尊い野球人生だった。 (森田 尚忠)