水害の歴史の証人、渇水時に現れる木造橋の脚 福知山のランドマーク・音無瀬橋の2~4代目
京都府福知山市のランドマークとして親しまれている音無瀬橋は、上柳町と猪崎を結ぶ全長478メートルのアーチ状の橋だが、川が渇水状態のとき、かつての木造橋脚とみられるものが水面に現れる。その姿は、市民とともに歩んできた音無瀬橋の歴史の一端を今に伝えている。 市街地(旧城下町)と庵我・雀部方面を結ぶ音無瀬橋の歴史は古く、初代は1877年(明治10年)に架けられた。幅60センチの板をのせただけの仮橋だった。その後、本格的な木橋として2~4代目が明治期に誕生している。 2代目は95年(同28年)に架けたが翌年の大水害で流失し、ほぼ同じ場所に98年(同31年)に架けた3代目もまた、9年後に大水害で流され、1909年(同42年)に4代目が完成。木橋は“水害のまち”の歴史とともにあった。
流されない強固な橋にとの期待を背負い、初めてのコンクリート製となったのが、1932年(昭和7年)に架設された5代目だった。橋を架ける場所は代を追うごとに少しずつ上流へと移動していて、現在の橋は95年(平成7年)に開通した6代目となっている。 木造橋脚とみられるものについて語るのは、40年以上にわたり音無瀬橋の歴史を研究している吉田博さん(73)=長町=。昨年、知人から「渇水時に木造の橋脚が見える」との話を聞き、今年の夏に初めて確認した。 普段は川底に沈んでいるが、日照りが続き水位が低くなると、ひょっこりと顔を出す。現在の橋から下流に向かってあり、歴代橋の配置図と照らし合わせると、それぞれ2代目、3代目、4代目の橋脚とみられる。 吉田さんは「福知山はかつて水運で発展したまちで、音無瀬橋のそばには船着き場がありました。時代の移ろいとともに形を変えながら、地域の交通の要としての役割を果たしてきた橋の歴史が今に残る様子を目の当たりにし、感慨深い」と話している。