故郷は原発被災地 解体される自宅をカメラに収めた記者「何が起きたのか、知ってもらいたい」 #知り続ける
福島中央テレビ
甲子園を目指していた高校球児は、東日本大震災と福島第一原発の事故を経験し、人生が一変した。名門校と言われた母校は休校となり、野球部は廃部となった。さらに2024年2月2日、住んでいた自宅や先祖代々の土地も失うことになった。崩れゆく自宅を前に、寂しさを感じながらもカメラを回した。かつての高校球児は今、原発によって何が起きたのかを後世に伝えていく責務を負っている。 【津波の脅威を捉えた46秒】「見殺しにしてしまった」「たまたま助かった」…津波恐れず家に留まった2人の男性たちの後悔の13年
その強力打線は「アトム打線」と呼ばれていた
創部90年以上の双葉高校野球部は過去3度の甲子園出場を誇る。福島県の太平洋沿岸部にある双葉町の「名門校」でもあり、その強力打線は立地する福島第一原発にちなんで「アトム(=原子力)打線」と呼ばれた。その名門校を襲ったのが2011年3月11日に起きた東日本大震災。当時、レギュラーのセカンドで高校2年生だった渡邉郁也(30)はその時のことを鮮明に覚えている。翌日に練習試合を控え、学校のグラウンドで守備練習をしていた時だった。 「最後の夏の甲子園に向けて、みんな練習にも気合が入っていた。そうしたら、いきなり立っていられないくらい地面が揺れて、みんなパニックになって…」。 高校球児の鍛えた足腰でも立っていられないほどの激しい揺れが数分続いた。学校の周りの住宅などが地震で崩れていく。「止まってくれー!」。渡邉は恐怖のあまり地面に這いつくばり大声で叫んでいたという。 当時、学校には約200人の生徒がいた。グラウンドに避難してきた生徒たちから「津波が来るのかな…」と不安の声があがった。高校は海岸から3キロしか離れおらず、生徒たちはすぐに高台に走って向かった。幸いにも避難した高台には津波は到達せず、みんな無事だった。
避難指示…持って行ったのは財布、携帯、毛布だけ
夕方、渡邉が大熊町の自宅に戻ると、中はタンスがなぎ倒され皿やコップは割れて床に散らばっていた。家には母と祖父母、姉もいて、みんなで片付けた。片付けが終わっても渡邉たちは家ではなく、車の中で過ごすことにした。当時、余震が数分おきに発生していて、外の方が安全だと判断したからだ。 車内でテレビを見ていると、画面は政府の緊急会見に切り替わり、当時の枝野官房長官がこう語った。 「落ち着いて対応頂きたい、21時23分、大熊、双葉に住民の避難の指示をした、3キロ以内の住民。これは念のためのもの、放射能は現在も炉の外には漏れていない、環境に危険は発生していない」。 渡邉の家は原発から約1.5キロ。財布や携帯電話と毛布を数枚だけを持って、原発から約5キロ離れた中学校に避難した。その晩は一睡もできなかったが、危機的な状況とは感じなかったという。 「翌朝には家に帰れると思ってたんです…」。