故郷は原発被災地 解体される自宅をカメラに収めた記者「何が起きたのか、知ってもらいたい」 #知り続ける
「家に帰れない!」テレビが捉えた原発爆発の瞬間
翌朝の午前6時、避難指示範囲が10キロに拡大され、町全域が避難の対象エリアとなった。渡邉たちは原発から約40キロ離れた避難所へ向かった。避難所の体育館に入ると、テレビの周りに住民たちが集まっていた。画面は見たこともない原発の姿だった。アナウンサーが上ずった声でリポートしていた。 「えー、さきほど1分前、福島第一原発1号機から…大きな煙が出ました。大きな煙が出まして、そのままその煙が北に向かって流れているのが分かるでしょうか。」 原子炉建屋の壁がはじけ飛び、煙が数百メートルほどたなびいていた。煙は原発の敷地を越えて、渡邉の家にも迫っているようだった。 「近くにいる人たちが死んでしまったと思いました。いずれにしても、家に帰れない!とハッと気づきました」。 血の気が引いていく感覚だった。渡邉の家の周りには大量の放射性物質が撒き散らされ、約1カ月後には立ち入りが制限された。
名門・双葉高校野球部 廃部へ…
双葉高校は避難先の高校の教室を間借りする形で授業を再開した。しかし、避難のため転校せざるを得ない生徒も少なくなかった。3分の1に減った野球部は、甲子園を目指し、諦めずに練習をした。しかし、渡邉たちの最後の夏は3回戦敗退だった。 「本来のレギュラーメンバーだったらもっと上に勝ち上がっていたはず…そういう悔しさは今でもあります。ただ、避難先の周りの人たちからたくさんの支援を受けて、試合に出られたことは嬉しかった。ごちゃまぜの感情でした…」。 その後、高校は休校となり、野球部の歴史も途絶えてしまった。
父と母が決断した故郷の家と土地の売却
原発事故から4年が経とうとしていたころ、渡邉の故郷では大きな問題が浮上していた。原発の周囲16平方キロメートルのエリアでは、国による土地の買収交渉が進められることになった。国が住民たちに受け入れを求めたのが「中間貯蔵施設」。福島県内では、生活環境から放射性物質を取り除く「除染」が各地で進められていたが、その除染で出た土などを30年保管する施設だ。渡邉の家がある地区は、その建設エリアに入ってしまった。先祖代々受け継がれてきた故郷の土地を売るか売らないか、交渉にあたったのは渡邉の父だったが、この問題については何も語らなかったという。 「父はおそらく、僕たち子供に心配をさせないようにしたと思う。汚染された土地を僕たちの世代に残さないように考えてくれていた」。 渡邉の父は東京電力の社員でもあり、事故当時は第二原発の中で事故対応に奔走した。しかし、2017年、多発性骨髄腫で57歳の若さで亡くなった。病気のことも最期まで息子たちに話さなかったという。亡くなって10カ月後、渡邉も同席する中、母が国の契約書にサインをした。 「施設ができなければ、除染が思うように進まないから。復興のためには必要なことと、父と母が決めました。」