『流麻溝十五号』ゼロ・チョウ監督 台湾の暗い歴史から学べること【Director’s Interview Vol.423】
台湾の歴史を映画にする
Q:本作の企画が立ち上がり、監督にオファーがあった経緯をお聞かせください。 ゼロ:もともと、製作総指揮のヤオ・ウェンチー(姚文智)さんとは長い知り合いなのです。彼は政治家だったのですが、政界を引退した後は台湾の歴史をテーマとした映画を作りたいと以前から考え、映画人を目指していました。そして今回、ツァオ・シンロン(曹欽榮)先生の著書『流麻溝十五號』を映画化したいという話が出てきたのです。台湾の女性政治犯7人へのインタビューをまとめた本ですが、これを映画にしようと。 ヤオさんからは「いろんな作り手に声をかけるつもりだ」と聞いていましたが、実は最初にオファーを出したのが私だったそうです。これまで私は女性やジェンダーを描いた映画を撮ってきましたが、本作も女性が主人公で、かつ強い関心を持てるテーマでした。「この映画を撮るのは私しかいない、これは私の仕事だ」と思い、監督を引き受けました。 Q:さまざまな歴史的資料に基づき、物語の中心となる女性3人を描かれたそうですね。彼女たちの人物像はどのように決まっていったのですか? ゼロ:主人公の女性3人には、当時、政治犯として投獄されていた女性の中で特に多かった職業を反映しています。杏子[きょうこ]ことユー・シンホェイ(余杏惠)は台湾出身の学生で、“厳(げん)さん”ことイェン・シュェイシア(嚴水霞)は看護師。当時の台湾では、教養のある女性は教師や看護師として働くことが多かったのです。看護師たちは、政府が禁じていた読書会に医師とともに参加して逮捕されてしまったんですね。 また、チェン・ピン(陳萍)は台湾人ではなく大陸からやってきた女学生です。資料や書籍を読み込んでいく中で、投獄された女性政治犯には大陸から流れてきた方々もいたことを知りました。そこで、物語の中心には大陸出身の女性もいるべきだと考えたのです。
『流麻溝十五号』7月26日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、シネマート新宿、シネマート心斎橋ほか全国順次公開 配給:太秦 © thuànn Taiwan Film Corporation
Q:この映画を観た台湾の観客、とりわけ女性たちの反響はいかがでしたか。 ゼロ:私の映画は女性を主人公とした作品が多いので、これまでは観客も女性が多かったんです。けれどもこの作品は、観客の男女比が男性4割・女性6割でした。映画のテーマにたくさんの方々が関心を持ってくださったんですね。 女性たちの関係を描いていると、よく「女性はお互いを嫌い、意地悪をしあっているから……」などと言われますが、それは非常に偏った見方です。今回、たくさんの資料を読んでいたら、当時の女性知識人がお互いに助け合い、支え合っていたことがわかりました。きっと、「連帯」こそが彼女たちの強みだったのでしょう。女性の観客の皆さんには、私が描きたかったことを感じ取ってもらえたのではないかと思います。 Q:「白色テロ時代の女性政治犯」という題材を、原作に近いドキュメンタリーの形式ではなく、あえて劇映画で描いたことにはどんな狙いがあったのでしょうか。 ゼロ:白色テロの当時を題材としたドキュメンタリー映画を撮るとなると、おそらく主人公の女性3人はおばあちゃんになりますよね。しかし劇映画ならば、彼女たちを少女や若い女性として描くことができる。私はやはり、この映画を通じて台湾の若者たちに語りかけたかったのです。この歴史的事実を、彼女たちのような人びとがいたことを若い世代に知ってほしい――そんな思いから、この物語を劇映画として語ることにしました。 当時、政治犯として投獄された方々には純粋な心と強い信念がありました。今の台湾を生きている若い方々は、もしかすると何の心配も抱かぬまま日々を送っているのかもしれませんが、個人的には「このままでいいのか?」という気持ちがあります。劇中で、厳さんは「信念が私たちに力をもたらす」と言い、自分の信念にしたがって動きます。一方でチェン・ピンは世渡りがうまく、とことん生き延びようとする。ふたりの考え方は違いますが、どちらも人間として大切なことで、若い観客にはその点を特に感じ取ってほしいのです。祖父・祖母の世代が若い頃からすさまじい信念を持っていたこと、その尊さを私たちは語り伝えていかなければなりませんから。 Q:リサーチを経て、この映画にとりわけ大きな影響を与えた事柄をお聞かせください。 ゼロ:死刑囚となった政治犯たちが、処刑直前に撮影された写真の中で笑顔を見せていることに大変驚きました。最初の1枚を見たときは「きっと壮絶な精神状態だったんだろうな」と思ったのですが、同じような写真がたくさん出てきたんです。処刑された方々の8~9割が、最後に撮られた写真の中で笑っているんですよね。 しかしなぜ、彼らは死を目前にして笑ったのか――調査を進めていくと、ある事実がわかりました。この映画で描いた時代の3年前、1950年の時点では、死刑囚の最期を撮影した写真は死後の1枚しかなかったんです。刑の執行を報告するため、刑務所は遺体の写真だけを撮っていた。しかし1953年には、総統の蒋介石が政治犯の存在に強い懸念を抱くようになっていました。銃殺された遺体は頭部が吹き飛ばされているので、本当に死刑囚本人かを判断できないということで、生前と死後を比較するために処刑前後の写真を撮るように指示したんです。蒋介石はそこまでしなければ安心できなかった。つまり政治犯の方々は、おそらく蔣介石が写真を見ることを知ったうえで、笑顔によって抵抗したんですよ。銃の前では無力だが決して服従しない、死ぬまで反抗してやると。