袴田巖さんの無罪判決を支えた存在。『虎に翼』のモデル・三淵嘉子の後輩と、理系出身でDNA鑑定を担当した2人の女性弁護士の闘い
◆「捏造に決まってる」 巖さんの汚名を雪(すす)ぐ闘いの陰に、静岡県沼津市出身の二人の女性弁護士がいた。 「判決文は羊頭狗肉でしたが、長い闘いに決着がつき、何よりもひで子さんが喜んでおられるのがよかった」と語るのは、今や弁護団最年長となった田中薫さん(77歳)。第一次再審請求が行われた1981年から参加した。 冤罪事件にかかわったのは、「徳島ラジオ商事件」が最初だった。53年、徳島市の電器店で店主の男性を殺した疑いで有罪判決を受けた、内縁の妻・冨士茂子さん。85年に再審無罪が確定したが、すでに彼女はこの世を去っていた。 「警察は住み込み店員に偽証させ、外部犯行説から内部犯行説にころりと変わった。警察や検察は平気で捏造をやってのけるんだと知りました」。(田中さん。以下同) 袴田事件の資料を読むと不自然な点だらけ。「『こんなの捏造に決まってる』と〈小川ちゃん〉(弁護団事務局長の小川秀世弁護士)と弁護団で騒いでいましたが、先輩弁護士らから『警察がそんなことするはずがない。捏造などと品のないことを言うものではない』などと言われたんです」。 小川事務局長を「小川ちゃん」と呼べるのも田中さんくらいだ。警察が事件の1年以上後に出してきた衣類は、血痕が多く付着していたことから、犯行時に着ていたものとされていた。「5点の衣類のうち、ズボンとその共布の糸を一本ずつ数えて検証したりもしました。被服学の間壁治子先生(共立女子大)に鑑定をお願いして」 自白供述書や、検察提出の被害者宅の巖さんが出入りしたとされる裏木戸の写真にも不審な点が見つかり、専門家への鑑定に奔走。しかし、検察はあの手この手でやり返した。たとえばズボンについた血痕は返り血のはずだが、下穿きのステテコのほうにずっと多く血がついていた。 その矛盾点を突いたが、「第一次再審請求の抗告審では、犯行途中でズボンを脱いだということにされたんですよ。そんなこと言われたらどうしようもない。裁判所の言うことはすべて屁理屈でした」。 弁護団の努力もむなしく、第一次再審請求は最高裁でも棄却される。81年の申し立てから27年もの歳月が経ち、巖さんは心神喪失状態となっていた。ひで子さんが請求人となりすぐに第二次再審請求を申し立てたが、実はこの時、田中さんは弁護団を離れていた。 「父の介護に追われていたんです。この時期は小川弁護士が頑張ってくれた」と、振り返って感謝する。
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