『ベルばら』マリー・アントワネットを追い詰めた悪女の末路 死因が“不気味”な人物も?
フランス革命を早めた悪女たち
2025年1月31日に、不朽の名作『ベルサイユのばら』が完全新作の劇場映画として公開されます。男装の麗人「オスカル」と彼女の従者である「アンドレ」以外は、ほとんどが実在の人物でした。「マリー・アントワネット」が断頭台で処刑されたのは有名ですが、それ以外の「悪女」たちはどのような最期を遂げたのでしょう? 【画像】原作では叶わなかった… こちらはオスカルとアンドレのウェディング姿です ●王妃の名をかたって荒稼ぎ「ジャンヌ」 ジャンヌは、マリー・アントワネットの名前をかたって「首飾り事件」と呼ばれる詐欺を企て、大金を手にしました。だまし取った金額は、当時の価値で200億円とも言われています。ジャンヌは逮捕、投獄されましたが、民衆は彼女に同情し、事件は王妃の陰謀だといううわさが流れ、革命を早める原因のひとつにもなりました。 その後、脱獄したジャンヌは事件の暴露本を出すなどして、したたかに生きたようです。しかしその死は突然で、1791年、35歳の時に滞在先のロンドンで窓から転落し、亡くなっています。転落の原因は精神錯乱とも強盗に襲われたためとも言われ、いまなお不明です。 ●宮廷内マウンティングで勝利「デュ・バリー夫人」 デュ・バリー夫人は貧しい生まれから、美貌と知性でルイ15世の公妾にまで上り詰めた女性です。しかしマリー・アントワネットが輿入れすると、ふたりの宮廷内マウンティングが勃発しました。デュ・バリー夫人が娼婦だったことを知ったマリー・アントワネットが嫌悪感から彼女を徹底的に無視したのです。 当時の宮廷のルールでは、身分の低い者(公娼)は身分の高い者(王太子妃)から声をかけられるのをひたすら待つしかありません。対立は2年に及び、ルイ15世やマリア・テレジアまで介入する事態にまで発展します。 1772年の新年拝賀式でついに、マリー・アントワネットが「今日のベルサイユは、たいへんな人ですこと」とデュ・バリー夫人に声をかけ、宮廷内マウンティングはデュ・バリー夫人の勝利で幕引きとなりました。 その後、ルイ15世の急逝でベルサイユを追放されますが、革命時にはイギリスに亡命し安全に暮らしていたようです。しかし革命の最中に、理由は不明ですが、フランスに一時帰国して革命派に捕えられました。命乞いもむなしく50歳で処刑されています。 ちなみに、前述の「首飾り事件」の原因となったネックレスは、ルイ15世がデュ・バリー夫人のために発注したものです。彼女とマリー・アントワネットの深い因縁を感じさせます。 ●王妃を手玉に取った「ポリニャック夫人」 マリー・アントワネットの寵臣だったポリニャック夫人は、当時の上流社交界最高の美女のひとりと言われた女性です。その美貌に心奪われたマリー・アントワネットの方から彼女に近づき、借金を肩代わりしたり、彼女の夫を出世させたりしました。 それに味をしめたのか、ポリニャック夫人は自分や一族のために多額のお金や身分不相応な出世を次々とねだって手に入れていったのです。そのため貴族たちから恨まれ、さらには王妃と彼女が性的な関係にあるという中傷ビラのせいで民衆からも憎まれていた彼女は、革命が起こると一家で国外へ逃亡しました。 しかし、その後も危険を顧みずマリー・アントワネットと手紙のやり取りを続け、王一家の国外逃亡計画にも協力するなど、ふたりの友情は続いたようです。ポリニャック夫人が亡くなったのは、マリー・アントワネットの処刑から2か月後でした。44歳の若さで、死因はガンとも心臓発作とも言われています。
山田晃子