渋谷スクランブル交差点 なぜ、ハチ公口に人が集うのか? 石榑督和
今年も渋谷スクランブル交差点は、ワールドカップやハロウィーンの際にニュースで大きく報じられた。いまや、渋谷スクランブル交差点は一種の広場となり、特別な日にそこへ集うこと自体が目的化しているとも言えるが、日常においても縦横に人々が横断するその風景は、東京を代表する風景のひとつとなっている。 では、なぜ、渋谷駅ハチ公口側の交差点が、スクランブル交差点になり、周辺の傾斜に広がる商業地の中心となったのであろうか。
道玄坂商店街 線状の商業地区
渋谷駅は1885年(明治18年)に開業していたが、戦前の渋谷は近世からの大山街道、現在の道玄坂・宮益坂を中心に発展していたため、大正期には駅前の建物は、街道側を正面としており、駅に背を向けていた。 駅が発展をはじめるのは1930年代半ばになってからで、駅ビルの開発が進み、道玄坂だけでなく駅前の重要性が高まっていく。昨年取り壊しが始まった東横百貨店が1934年に開業し、東急会館(現在の東横百貨店東横店西館)の前身となる玉電ビルが1937年に着工された。玉電ビルには東京横浜電鉄玉川線が2階に、東京高速鉄道が3階に乗り入れた。しかし、戦時の資材統制のため、工事は4階までで中止、玉電百貨店が入居する予定となっていた上階は完成しなかった。
道玄坂+駅前 戦後闇市の時代
渋谷は1945年5月25日に空襲を受け、灰燼に帰した。終戦直後の盛り場としての復旧は、駅周辺と道玄坂の北側(現在の109や渋谷プライム、LABI渋谷の立つ三角形の街区)に大規模な闇市が発生したことで進んでいく。戦後の闇市は大山街道(道玄坂・宮益坂)沿いだけでなく駅周辺に発生し、住宅街であった渋谷駅の南側、現在の井の頭線の南側やヒカリエのあたりも商業地区へと変えていった。
戦災復興
1950年代になると大きく復興が進み、現在のハチ公口附近の現形ができあがっていく。戦中に工事が止まっていた玉電ビルの開発を東急が再開し、1954年に東急会館(現在の東横百貨店東横店西館)、1956年に東急文化会館(ヒカリエの前身)を建設する。また、戦災復興土地区画整理事業が進んだことでセンター街が誕生(1955~58年)。現在のスクランブル交差点の地下には、戦後に闇市として道玄坂に並んでいた露店が集まり、地下街「しぶちか」が生まれた(1957年)。しぶちか誕生に際しては、東急はその建設費を援助することを条件に事業に加わったことで、駅前の公有地(ハチ公広場および公道)の地下に大規模な店舗を建設、所有することができた。 こうして1950年代にはスクランブル交差点を取り囲む都市景観の基盤ができていく。しかし、この頃になっても渋谷の商業地区はあくまで道玄坂と地形的に谷底に位置する現在の駅前に限られていた。