渋谷スクランブル交差点 なぜ、ハチ公口に人が集うのか? 石榑督和
西武の渋谷進出 百貨店の展開
1960年代になり、こうした状況に大きな変化が生まれた。東京オリンピックの際に建設された代々木競技場をはじめ、渋谷公会堂、渋谷区役所、NHK放送センターなどが建設されたのである。これが1970年代のパルコを中心とした区役所通り(現在の公園通り)の発展の基盤となった。 他方で、1960年代後半には百貨店の建設が進む。1967年には渋谷区立大向小学校の跡地を取得した東急百貨店が、同地に本店を開業。さらに松竹映画館、渋谷国際劇場の撤退を聞きつけた西武百貨店が、渋谷に出店(1968年)したことで、駅前だけでなく、より広域に商業地区が展開し始めた。
パルコの時代から109のオープンへ
1970年代になると、西武資本のパルコが中心となり、宇田川町を「魅力的な街」へと変えるためまちづくりを始めた。特に、通りに名前を付け、街に新しいイメージをつくることに成功した。区役所通りはパルコ渋谷店のオープンに合わせて「渋谷公園通り」(※1)と名を変え、これ以降、駅から公園通りを経て原宿へと至るルートが商業的に開発されていくことになった。 またこの頃、パルコの依頼で命名された「スペイン坂」の界隈は中小規模の開発が進み、賑わいを見せ始めていたし、1978年には東急ハンズがオープンしたことで宇田川町一体が「面」的に開発されていった。 公園通り側へ顧客を奪われた東急は、東横百貨店本店側へ客足を誘導するための拠点として、駅と本店の間に位置した闇市の再開発事業に参入し、1979年に「109」を開業した。 こうして戦前には道玄坂のみの単線的な商業地区であった渋谷ハチ公口は、現在のような多極的構造をもつ商業地へと変容していったのである。 戦前の道玄坂商店街の発達と駅の開発を背景に、戦災復興期には闇市が駅を中心とした商業地を作り出し、続いて50年代に東急が駅ビルの開発を進めたことで駅周辺の商業的な重要性がさらに増した。そして、1960年代には代々木競技場の建設、東横・西武百貨店の開業によって商業地区が拡大し、1970年代のパルコを中心とした公園通り・宇田川町のまちづくりによって回遊性が生まれ、渋谷は多極的構造をもつ街へと変化していった。 渋谷スクランブル交差点とは、こうした渋谷の多極的構造を有機的につなぐハブとなっているのである。 ------------ 石榑督和(いしぐれ まさかず) 明治大学兼任講師、同大学まちづくり研究所客員研究員。1986年生まれ、岐阜県岐阜市出身。明治大学卒業。博士(工学)。東京の鉄道ターミナル近傍の都市形成史を研究している。専門は近現代都市史・建築史。 ※1 代々木公園へと続く通りであったこと、「パルコ」がスペイン語で「公園」を意味することに由来する。