『光る君へ』伊周・隆家配流と定子出家で「道長の権力」が増大。それでもまだ残る<伊周兄弟逆転>のシナリオとは…
『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマには多くの貴族が登場しますが、天皇を支えた貴族のなかでも大臣ら”トップクラス”の層を「公卿」と呼びました。美川圭・立命館大学特任教授によれば、藤原道長の頃に定まった「公卿の会議を通じて国政の方針を決める」という政治のあり方は、南北朝時代まで続いたそう。その実態に迫った先生の著書『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』より一部を紹介します。 花山院に矢を放った伊周・隆家兄弟は「左遷」。左遷先で彼らがどんな扱いを受けたかというと… * * * * * * * ◆伊周・隆家の配流決定 『光る君へ』でも描かれたが、長徳2年(996)3月下旬、天皇の母東三条院詮子がにわかに重病となり、女院の寝殿板敷の下から呪詛のまじもの(人形のようなもの)が掘り出された。 4月1日には、臣下が私的に行うことを禁止されていた大元帥法(たいげんのほう)を伊周らが修したという報告があった。これは道長調伏(呪い殺すこと)のためという。 ついに4月24日、伊周が大宰権帥(だざいごんのそち)、隆家は出雲権守(いずものごんのかみ)として配流されることが、天皇御前の除目の座で決した。 理由は、花山法皇を射たこと、女院を呪詛したこと、私的に大元帥法を修したことの三つであった。
◆中宮定子の出家 中宮定子も2月25日に内裏から退出し、さらに3月4日天皇の命令で二条北宮に移った。このとき定子に従う公卿はほとんどいなかった。 ところが、定子はその後も内裏に参入していたらしい。定子はこの年の12月16日に一条天皇の第一子脩子を生んでいるからだと倉本一宏は推定する。 こうしたこともあるのか、伊周、隆家は二条北宮の定子のもとに匿われ、配所に下ろうとしなかった。 5月1日、検非違使による二条北宮の大規模な捜索が、天皇の命令で行われた。定子が車に乗せられたうえ、寝殿の夜大殿(よるのおとど)の戸が破られ、組入天井や板敷がはがされた。しかし、伊周はみつからず、隆家だけが捕らわれた。定子も、ついにこの日出家した。
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