小田原攻めの秀吉が「一夜で」築いた関東初の総石垣 北条氏の度肝抜いた名城・石垣山一夜城(小田原市)
4万人動員し突貫工事 北条方への優位見せつけか
もちろん、いくら秀吉であっても一夜でこれだけの城を築くなど不可能で、実際には約4万人の動員数で82日ほどかかっている。ただし、大坂城が本丸だけで1年以上を要していることを考えると、かなりの突貫工事だったことは間違いない。この城はいわば秀吉の分身でもある。これだけの豪壮な城を短期間で完成させられることが重要だったのだろう。 秀吉は在城中に、天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、側室の淀殿まで呼び寄せたりして、茶会や宴会を開いては優位であることをアピールしたといわれる。北条方に精神的ダメージを与えながら、いくらでも長期の兵糧攻めが可能なことを示したのだろう。同時進行で、小田原城に兵糧が運び込まれないよう厳重に監視しながら、領内の支城をひとつずつ潰していったのだった。
400年の時空超えて残る穴太衆の技術
崩れかけてはいるものの、現在も城内には総石垣の城の姿がほぼそのまま残る。文書によれば、秀吉が石垣を築かせたのは、近江坂本の穴太(あのう)衆。穴太衆といえば、信長に重用され後にカリスマとなる石工集団だ。すべてではないにせよ、穴太衆が天正期に築いたすばらしい石垣が、400年以上の時空を超えてこれほど広範囲に生き残っていると思うと、心が震える。全国的に希少ともいえ、関東の誇りだ。 関東最古の野面積みの石垣は、突貫工事で築かれたとは思えないほど頑丈だ。さすがは天下人の座に王手をかけた秀吉の、最高峰の技術力に感服する。小田原城の石垣は、江戸時代に積まれた上に関東大震災でほとんどが崩れている。これに対して石垣山城の石垣は、紛れもなく1590年モノ。それにもかかわらずほぼ原形をとどめているのは、やはり技術力の差なのだろう。 城は、南北方向に走る尾根を軸に、城域の最高地点に本丸を置き、その南端には天守台が配されている。天守台には瓦葺(ぶ)きの天守が建っていたようだ。本丸の北側には二の丸、その北東側に北曲輪(くるわ)や井戸曲輪などを配置。井戸曲輪の西側に設けられた櫓台跡からは、東海道を見下ろせる。本丸の南東側には南曲輪など小さな曲輪群が置かれ、その西側には西曲輪、さら大堀切を隔てて出城が置かれている。 注目は、虎口が枡(ます)形虎口であることだ。とくに、二の丸から本丸に上がる北門の跡は、外枡形と内枡形をセットにした二重枡形虎口で、織田・豊臣系の城の特徴を表している。