首相も財界トップも手玉に取った「天才霊感少女」 藤田小女姫殺害犯がハワイの刑務所で殺されていた
「ヒメがいなかったら、いまの俺はなかったよ」
岸も茂木も、以来、長らく彼女と親交を続けた。ある実業家は、上機嫌の岸が新安保条約成立後に車のなかで、 「あのとき、ヒメがいなかったら、いまの俺はなかったよ」 と話したのを覚えていた。 小女姫の死まで、10年来のつき合いがあった、年輩の元実業家は、彼女の“信者”が、右翼から政財界、芸能スポーツ界にまでも広がったいきさつを、こうみていた。 「いくら雑誌やテレビでもてはやされても、子どもの霊感に、政財界のお歴々が、いきなり注目したわけではないでしょう。最初に彼女を認めたのは、前田久吉さんでしょうね」 大阪生まれの前田は、戦時中に大阪界隈にひしめく産業関連の業界紙を統合し、産経新聞を創刊した名物経営者だった。戦後の公職追放を経たのち、昭和25年に社長に復帰し、東京進出という大事業を一気に押し進めた。小女姫が、産経紙上に登場した年だ。 好奇心旺盛な前田が、その記事を面白がり、試しにいくつかの相談を持ちかけてみたのが、始まりらしかった。 先見の明があった前田は、放送事業の成長を見込み、東京進出の7年後には東京タワーを建設、さらに翌年、関西に二つのテレビ局をつくった。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのメディア王だった。 「前田さんは晩年ですが、重要な事業のことごとくを、小女姫さんに相談していたと言っていましたね。それが見事に的中するものだからびっくりしたと。逆に相談せずに手がけた事業は、はじから失敗したそうです。ですから、あの再建事業も……、そうだったんでしょうか」と元実業家は首をひねった。
「松下幸之助さんが、子どもみたいに扱われていました」
前田は昭和33年、経営不振の時事新報社の再建につまずき、産経新聞社長のイスを水野成夫に譲ることになる。前田に引導を渡した水野を危険視する警告を、小女姫が早くから前田に伝えていたとも、彼は周囲に漏らしたという。 余談だが、前田を追い落とした水野にも、小女姫はずいぶんとひいきにされた。 現役時代の前田は、彼女の能力を買っていることを、誰彼構わずに語って聞かせたわけではなかったようだ。元実業家は、続ける。 「親交の深かった小川さんには、早くに彼女を紹介しています。小川さんこそが、彼女を大々的に売った張本人です」 小川とは、安田信託銀行の辣腕行員で、戦後、旧藤田財閥の解体を陣頭指揮し、藤田興業の社長になった小川栄一のことだ。さらに藤田観光を創設し、観光産業の草分け的な経営者となった。 「小川さんは忙しい人ですから、日本中を飛び回っていた。それで一時期、彼女も一緒に連れ回して歩いたらしいんです。厚く信奉していたというより、ペットのようにかわいがっていた感じかな。だから、小川さんの周りに集まる著名人の間に、一気に顔が売れたんです。彼女に人気が出たのは、小川さんの信用半分、天真らんまんな彼女のキャラクター半分であったと思いますよ」(前出・元実業家) そういう彼は往時の小女姫を、 「常識はゼロ。世の中のことをなにも知らない。なんせ彼女にかかれば、岸さんだって松下幸之助さんだって、子どもみたいに扱われていましたよ。死ぬまで、あの人は小学生のままだったな」 と懐かしそうに思い起こした。