デビュー15周年を迎えた大日本プロレスのエース、関本大介選手に聞く/大阪
大日本プロレス所属の関本大介選手の「15周年記念大会」がこのほど、BODYMAKERコロシアムで行われた。関本選手は大阪市出身。鍛え上げられた超人ハルクのような肉体が特徴で、肉体そのものが“凶器”だ。 華々しい戦歴を持ち、メジャー団体の選手とも頻繁に試合を行い、今、もっともアツいプロレスラーと言っても過言ではない。各団体から引っ張りだこで、昨年12月には、年間で全17団体186試合に参戦して広範囲に活躍したことが評価され、プロレス大賞の敢闘賞を受賞した。
どん底があるから今がある
この日の大会では7試合が組まれ、メインイベントのスペシャル6人タッグマッチ30分1本勝負では、関本選手がフォールを奪い、記念大会を飾った。 そこで大会を終えた関本選手にこれからのことやこれまでのプロレス人生など話を伺った。「15周年を迎え、このような記念大会を催せたことが、これまでの人生の中でいちばんうれしいです。逆に辛かったのは、下っ端の頃、雑用ばかりに追われて忙しく、正直、その頃がどん底だった。24、25歳の時で10年ほど前です。お客さんもぜんぜん入らなかった。でも、どん底があるから今がある」 幼い頃からプロレスへの憧れを持っていたが、野球好きだった父親の影響で中学校、高校と明徳義塾に通い、野球部に所属した。中学時代の終わりに小橋建太の試合を見て、プロレスラーを志すようになり、野球の練習ではなく筋トレに励んだという。そしてツテを頼ってグレート小鹿(現・大日本プロレス会長)と面談。高校を卒業後の1999年に大日本プロレスに入団し、地元大阪でデビューを果たした。
後楽園ホールで蛍光灯デスマッチも敢行
2004年10月には、後楽園ホールで大日本プロレスの代名詞である蛍光灯100本デスマッチを敢行した。大流血の洗礼を浴びたものの、原爆固めを決めて勝利。これ以降、2005年までデスマッチ路線を中心に流血の戦いを繰り広げることとなる。 「蛍光灯デスマッチをやらなければ、メインのリングに立てない。自分を変えたいという思いもあり、ずっとやってました。ただ、その後、自分の目指しているものとは違うと判断して、今はやっていません」 この日も、「祝15周年 蛍光灯150本 6人タッグデスマッチ30分1本勝負」が行われた。6人の中でも、アブドーラ・ザ・ブッチャーにそっくりなアブドーラ・小林選手(大日本プロレス所属)は、割られた額から鮮血を滴らせ、客席からは何度も悲鳴が上がった。 「蛍光灯デスマッチは全身血だらけになります。ストーリーのない真剣勝負ですが、その真剣さゆえに、お客さんが興奮し、熱い視線で観てくれるんじゃないですかね」 また、デスマッチの前の試合ではヒール役のバラモン兄弟がペットボトルの水を客席に吹き飛ばすパフォーマンスで会場はヒートアップ、観客が逃げ惑うシーンも。