瀬戸内海に大量の重油が…深刻な漁業被害 水島コンビナートの重油流出事故から50年 証言や教訓を次世代へ【岡山発】
瀬戸内海に大量の重油が流出し、深刻な漁業被害などが発生した岡山・倉敷市の三菱石油水島製油所の重油流出事故の発生から12月18日で50年になる。 【画像】重油は半年近くにわたり海を漂ったという
瀬戸内海の3分の1に及んだ流出事故
この事故は1974年12月18日の夜、倉敷市の水島コンビナートにある三菱石油(現在のENEOS)水島製油所でタンクの底部が破断し、約4万3000キロリットルの重油が流出したものだ。 この影響で重油に押し流されたタンクの階段が防油堤に衝突し、壊れた防油堤から7500キロリットル~9500キロリットルの重油が瀬戸内海に流れ出した。 重油は岡山、香川、徳島、兵庫の沿岸に広がり、その範囲は瀬戸内海の3分の1に及んだ。半年近くにわたって重油が海を漂い、沿岸の住民らがひしゃくを手に回収作業を行ったほか、自衛隊も回収作業にあたった。 当時の経済企画庁の調べでは、被害額は約430億円に上った(昭和50年度年次経済報告)。事故の翌年、1975年12月には石油コンビナート等災害防止法が制定され、安全対策が強化されるきっかけとなった。 「50年はあっという間だった」と話すのは当時、三菱石油の社員で、倉敷芸術科学大学の非常勤講師・古川明さん(倉敷市出身・73)だ。 古川さんはこの年、三菱石油に入社した新入社員で、赴任先の宮城県から1月10日頃から3カ月余り、香川県に入った。坂出市では作業資材の手配や油まみれになった吸着マット、回収した油のドラム缶の引き取り手配などにあたった。 海岸では、朝から晩まで漁業関係者らが、凍てつく海岸で油の回収と海岸清掃に明け暮れ、古川さんが油の回収にあたった時は「ゴム手袋をつけて岸壁の岩と岩との間に手を入れて、手でかき出すとべっとりと油があり、翌日同じ場所に行っても潮の満ち引きでまた油がある状態だった」と話す。 現地に入った当初は、漁業関係者から厳しい視線や言葉を受けたが、時が経過すると、訪問するたびに優しい言葉を投げかけてくれるようになったと当時を振り返る。 坂出市の番の州地区で重油を回収したドラム缶は数万個、重油の吸着マットを入れた麻袋は10数万個に上ったという。