日本にサヨナラ言えず…J助っ人から転身「本当に光栄」 異国へ捧げた“第2の人生”【インタビュー】
元J助っ人パウリーニョ、日本で現役終え、松本の強化担当スタッフで奔走の日々
Jリーグで現役キャリアを終え、引退後に異色キャリアを歩む元J助っ人がいる。川崎フロンターレ、ジェフユナイテッド千葉、湘南ベルマーレなど、日本で6クラブを渡り歩いたブラジル人のパウリーニョは現在、J3松本山雅FCの強化担当スタッフに身を置く。13年半に及ぶJリーグでのキャリアに続き、第2の人生でもなぜ日本と関わり続ける決断を下したのか。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・橋本 啓/全3回の1回目) 【写真】「これで小6」「高校生かと思った」 J助っ人の身長に迫った長男の実際の姿 ◇ ◇ ◇ 今年3月、松本の本拠地「サンプロ アルウィン」で行われた引退セレモニーで、パウリーニョは涙ながらにスピーチを読み上げた。「僕の日本語は良くない」。会場に集まったファンにこう告げながらも、すらすらと日本語でメッセージを紡ぐ。出てきたのは感謝の言葉の数々。「外から見ると日本人は冷たい、閉鎖的だと言われることもありますが、私が13年半、ここで暮らしてきた中でそんなことはありませんでした」。“日本愛”がどっとあふれた。 初来日は2010年7月に遡る。母国の名門バスコ・ダ・ガマにいたパウリーニョに、栃木SCのスカウトが目を付けた。初対面時のことをパウリーニョは「もともとストライカーを探していたらしかったんですけど、自分のことを見て気に入ってくれて。そこでいろんな話をして、オファーをもらいました」と振り返る。主戦場は中盤だったが、闘争心剥き出しのプレー面はもちろん、真摯にプレーするその人間性を高く評価された。 年俸は当時貰っていた金額とほぼ同額。報酬面だけを考えれば、魅力的なオファーとは言い難かった。実際「お金が良い」という理由で、日本行きを選択する同胞の姿も見てきた。日本に行く価値はあるのか。周りからそうした目で見られてもおかしくなかったが、当時21歳だったパウリーニョは違った。「これはチャンスだ」。日本に行けばきっと良い未来が描けると、信じて止まなかった。 「ガンバ大阪や大分トリニータで活躍したフェルナンジーニョと、実はすごく仲良しだったんですよ。フェルナンジーニョも日本が好きで、日本の良いところをたくさん話してくれました。だから、良いイメージはあったんですよね。当時まだ独身でしたが、付き合っていた今の奥さんも理解してくれました」 南米のラテンの国からアジアの島国へ。母国とは文化も生活環境も全く異なるが、日本の地を踏んでみると、不思議と馴染める感覚があった。出身はブラジル南部のサンタカタリーナ州ブルメナウ。同地はドイツの植民地であった歴史を持つ。規律を重んじ、勤勉で生真面目な性格が特徴というお国柄もあってか、昔から「規律正しかったり、差別も全くない」環境で育ってきた。日本とフィーリングが合ったのは、まさにそうした背景があったからだと、パウリーニョは言う。 「植民地時代の名残りで教育がすごいしっかりしているんです。日本に似通ったところを感じました。それに日本は外国人に対して温かいし、優しい。食べ物にも困らない。外国人から見ると『寿司だけしかない』という感覚かもしれないですけれど、色んなジャンルのものがあって多種多様。魚もあれば肉も食べられる。日本に来た初日から今までずっともう日本のことを愛してますし、自分にとって合う国なんですよ」 もちろん、カルチャーショックがなかったわけではない。日本特有の上下関係、目上の人に対する敬語、ひらがな、カタカナ、漢字といった言語に関するものまで、当初は戸惑った。それでも日本人と接した際の温かさと生活環境に惹かれたパウリーニョには「もうずっとここでサッカーしたいな」という思いが芽生えていた。 加入当時J2の栃木で4シーズンを過ごしたあと、川崎、千葉、湘南、松本、ファジアーノ岡山と渡り歩き、現役最終キャリアを再び松本で過ごした。気づけば13年と6か月。そもそも1つの国に助っ人として長くとどまれる外国人選手は決して多くはない。異例とも言える日本でのプロ生活だが、パウリーニョにとってはごく自然な成り行きだった。 日本では家族も増え、2人の子供を授かった。運にも恵まれ、大好きな異国の地で続いた13年半の現役生活。意を決した21歳での挑戦が、これほどまで長く続くとは当時は夢にも思わなかった。もっとも、日本とフィーリングが合ったパウリーニョに言わせれば、「信じられないような感覚ではない」。日本で明るい未来が描ける。そう信じて母国を飛び出した末に、日本は第2の故郷になった。