井上尚弥vsネリの36年前、初の東京ドーム興行の第1試合で大番狂わせを演じた「噛ませ犬」の左フック
毎回倒し倒されの激闘を繰り広げ、最後は必殺の左フックでなぎ倒す吉野は、後楽園ホールを常に満員の観客で埋めた。「坂本戦では50万円にも届かなかった」というファイトマネーも、全盛期は最高350万円まで増えた。当時日本はバブル景気真っ只中だったとはいえ、現在と比較しても破格のファイトマネーを稼ぐ人気ボクサーだった。 90年代、テレビなどのメディアを通じて広く世間に名を知られたカリスマボクサーが辰吉丈一郎ならば、足繁く後楽園ホールに通う熱狂的なボクシングファンに、家族や仲間のように愛された下町の英雄が吉野だった。 「先にダウンを奪われた試合のほうが、後から調子が上がった(笑)。試合を観て喜んでもらえたら嬉しいし、当時はとにかく、チケットを購入してわざわざ足を運んでくれたお客さんを喜ばせたい気持ちが強かった。 勝とうが負けようが、感動できる試合を見せるのがプロの仕事。それが、応援してくれる人たちに対する恩返しにも繋がると思いながら、リングに上がっていた。『吉野は右のパンチも使えたらな』とか、そういう意見も多かった。でも、みんながそう言うなら『俺は左フック一発で世界獲ってやる』って反発しながらね(笑)」 1993年6月23日、吉野は25歳のときウェルター級の日本タイトルを返上、スーパーライト級に階級を落として初の世界戦に挑んだ。相手は65戦61勝2敗2分という驚異的な戦績を誇っていた名王者、ファン・マルチン・コッジ(アルゼンチン)。ちなみにこの後も含めてコッジはWBAの同タイトルを通算3度獲得し、10度防衛した。 吉野は左フックで先制攻撃を仕掛けて会場を沸かせるも、5ラウンドTKOで華々しく散った。しかし以降も数々の名勝負を繰り広げ、東洋太平洋ウェルター級、日本スーパーウェルター級王座を獲得。2004年8月に37歳の誕生日を迎えてライセンスが失効するまで51戦も戦い続けた。 二十数年ぶりに再会した吉野は、月日を重ねた分だけ顔のシワも増えたが、太陽のように明るい笑顔は当時のままだった。ボクサーとしての強さだけでなく、普段は穏やかで謙虚な人柄もファンに愛された理由であることをあらためて実感する。しかし、そんな吉野の人生は幼少期から苦しく辛いものであったことを、今回、取材を通して知ることになった。 (後編につづく) ●吉野弘幸(よしの・ひろゆき) 1967年8月13日生まれ、東京都葛飾区出身。1985年プロデビュー。88年3月に獲得した日本ウェルター級王座は14度連続防衛(同階級では現在でも歴代最多記録)。同王座返上後、93年6月に世界初挑戦するも王座獲得はならず。その後、東洋太平洋ウェルター級、日本スーパーウェルター級のベルトを腰に巻いた。プロ戦績51戦36勝(26KO)14敗1分。97年9月には大阪ドームで開催されたK-1に参戦し、1回KO勝利を収めた。現在、地元葛飾でH's STYLE BOXING GYMを経営。 ※本文中の辰吉丈一郎の「吉」の正確な表記は「土」の下に「口」、「丈」の正確な表記は右上に点がつきます。 取材・文・撮影/会津泰成