30歳の特攻隊長 嘆願書に書かれた「とりかえしのつかぬ不運」~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#53
父はソ連抑留所内で死亡
司令が夜間、遠方から彼を呼び寄せさえしなかったならば、彼はこの事件には関係せずに済んだのであります 執行後、彼が墓穴に野の花を捧げ、敬礼して立ち去ったという話は、彼の人格を十分説明するものと思います 彼の父は終戦時、満州からソ連領内に、ソ連軍により連行抑留せられ、1945年10月9日、抑留所内で栄養失調で死亡しました 彼の母は夫を失い、今また長男を失わんとして、他の3人の子供を擁し、悲愁と生活難のため、気も狂わんばかりであります 〈写真:事件当時の石垣島警備隊の配置(米軍資料)〉
自己の不運をあきらめないように
幕田大尉を含め、3人の「有用な青年」の記述をしたあと、マッカーサー宛の嘆願書は次のように結ばれる。 <嘆願書> もし閣下の御賢慮と御慈悲により、被告人等に対する原判決の刑が軽減せらるることが出来れば、被告人等、及びその家族は日照りに慈雨を得たように蘇生し、歓喜と希望をもって日本の再建のみならず、世界人類の福祉のために献身するに相違無いことを信ずるものであります 何卒、彼等をして単に自己の不運をあきらめることに終らしめないよう、衷心より幾重にも懇願する次第であります 〈写真:元軍人が書いた嘆願書の写し(国立公文書館所蔵)〉
三人に共通する「不運」
この嘆願書に書かれた、井上勝太郎副長、田口泰正少尉、そして幕田稔大尉の3人の項に共通しているのは、「不運」であったということだ。 つまり、”運悪く”戦争末期に石垣島に配属され、”運悪く”戦争犯罪人になり、さらに絞首刑の判決を受けたことが、取り返しのつかない「不運」だと書かれている。それはこの3人に限ったことではなく、石垣島事件で死刑判決を受けた41人全員がそうであり、戦争に行った誰もが戦犯になった可能性があったということだ。 戦犯に対しての世論も、最初は戦犯の家族が周囲から心ない仕打ちをされたり、迫害の対象になったりということもあったが、この嘆願書が作られたころには、戦犯たちへの助命嘆願の動きは広がりを見せ始めていた。 〈写真:戦犯たちが収容されたスガモプリズン〉 結局、「日本再建に極めて有用」と名指しされた三人の将校は、いずれも最後まで減刑されることはなく、死刑が執行された。幕田稔大尉についてはその人柄について書かれたものがいくつか見つかった。 彼はどんな人だったのかー。 (エピソード54に続く) *本エピソードは第53話です。