30歳の特攻隊長 嘆願書に書かれた「とりかえしのつかぬ不運」~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#53
石垣島事件で41人の死刑判決が出たあと、元軍人がマッカーサー宛に書いた嘆願書。その中には、「将来の日本再建の為に極めて有用な青年」として、3人の将校について記されていた。 【写真で見る】石垣島事件の法廷での幕田大尉 一人は、副長の井上勝太郎大尉。もう一人は”最後の学徒兵”田口泰正少尉。そして、あと一人は幕田稔大尉だった。海軍の特攻隊、震洋隊の隊長だった幕田大尉は嘆願書もむなしく、30歳で1950年4月7日に死刑が執行された。 彼が事件に関わったのは、どんないきさつだったのかー。
海軍の特攻隊長
国立公文書館の石垣島事件のファイルに入っていた、元軍人が提出したとみられる嘆願書の控え。軍において命令は絶対で、命令の執行者の責任は軽微なものとみるべきとして、特に処刑の実行者の減刑を求めている。 その中で特に減刑すべき「日本再建に有用な青年」の一人として、幕田稔大尉について記している。 <嘆願書>(※現代風に書き換えた箇所あり) 幕田稔君は、1944年11月石垣島警備隊勤務を命じられ、同隊司令の指揮下にあった第二十三震洋隊の隊長となり、警備隊本部から約4里半(約18キロ)隔たった海岸に、約160名の部下と共に駐屯していました 震洋隊とは海軍の特攻隊で、小型のベニヤ板製モーダーボートに火薬を仕込み、特攻兵器として用いたという。 〈写真:石垣島事件の法廷 右側の端が幕田大尉(米国立公文書館所蔵)〉
剣道の達人であったことが「不運」
<嘆願書> 本事件の発生当時、彼は数え年で27歳の海軍大尉でありました 落下傘で降下した3名の俘虜が同警備隊で逮捕せられた日の午後7時頃、電話で突然、司令から呼びつけられトラックに乗り、1時間余りかかって警備隊本部に出頭し、司令から俘虜の中の一人を斬首する事を命ぜられました 彼が先任の士官であり、剣道の達人であった事が、司令をして彼を第1番目の俘虜の処分者として選ばしめたのでありまして、それは彼にとって、取りかえしのつかぬ不運であったといわねばなりません 〈写真:石垣島〉