「サプライズは別にええねんけどさ」お涼の風貌が量産型であったがために起きた電車での悲劇【坂口涼太郎エッセイ】
日常にこそきらめきを見出す。俳優・坂口涼太郎さんが、日々のあれこれを綴るエッセイ連載です。今回のエッセイは「誤スパァーーンッ!!」です。お涼は今読んでいるあなたのそばにいて、しかもそこにはいないのである。 【写真】日常こそが舞台。自宅で「お涼」ルーティーンを撮り下ろし 私はありとあらゆるものに似ている。 人はもちろんのこと、キャラクターや動物、虫や絵画やモニュメントや石や流木など、ありとあらゆるものに似ている。 ドッペルゲンガー現象といわれる自分と同じ風貌の人間が世界には自分を含めて3人いて、その人間に遭遇すると命を落とすという迷信というか言い伝えがありますが、あれ、嘘です。大嘘です。だって、それがもし本当だったら私はもうすでに900回ぐらい死んでおります。 学生の頃などの、いまより連絡をとっている友人が格段に多かった時代は毎日のように、「お涼今日三宮のセンター街にいた?」とか「さっきダイエーにいた?」とか「いま同じ電車に乗ってたよね?」というお涼との遭遇を報告する連絡がぱかぱか携帯をぶーんぶーんと震わせ続けるのだが、いないのである。 お涼は一切そこにいないのである。 それは私の幻影でも生き霊でもなんでもなく、私に似ている、私と同じモデルタイプの人間であり、その人々は風貌だけではなく、なぜかお洋服の趣味まで似ているから余計に厄介。 しまいにはお涼の産みの母まで「あんた今日道ですれ違ったとき手振ったのに無視したでしょ」と我が子と赤の他人を見間違う始末。 自分でさえ、ある日フィギュアスケートのテレビ中継を見ていたらキスアンドクライで自分が号泣している姿が映り、「え、おれ、この試合出てたっけ? ていうかその前におれ、フィギュアスケートやってたっけ? ほんで、こんなに嗚咽してたっけ?」と思ってよく見たら織田信成選手だったり、「おれ、そんなにちっちゃいことは気にしなかったっけ?」と思ってよく見たらゆってぃだったり、「おれ、そんなによく物陰から顔出してたっけ?」と思ってよく見たらひょっこりはんだったり、しまいにはデパートの鏡に映っている自分の顔を見ようと近づいたらそこはガラスで、よく見ると自分とそっくりの人がガラスをはさんで向こう側からこっちを見ているのを自分だと勘違いしたり、自分でも自分をよく見なくてはどれが自分なのかわからなくなるほど自分と類似している人がいっぱいいすぎてソー・ハードなのである。 似ているキャラクターもたくさんいて、『ちはやふる』のヒョロくんを筆頭に、最近は「お涼が『はなかっぱ』に出てくるももかっぱちゃんのお兄さんに似ていると言われている」という報告を何人もの人からもらった。 うん、似ていると思う。 あまりにも似ているものがありすぎて、私はそれに対して嬉しいとか悲しいとか感情の部分は一切動かず、ただ「似ているな」と心底思い、自覚するだけ。ご報告の中で久しぶりに唸ったのは数年前の「坂口涼太郎って誰かに似ているなと思ったらアメンホテプ4世だった」という、私にそっくりな古代エジプトの石像の写真とともにつぶやかれた投稿であり、「へえ、なかなかやるやん」と口の端が上がった。 もはやここまでくるとお涼が何に似ているかという大喜利において、センスのある回答を欲している自分がいる。 こんなにいろんなものに似ているということは、もしかして私は大量生産されたクローンなのではないか。この地球にいる人間をぎゅっと集めたら実は5割がお涼の風貌をしているのではないか。その方がドッペルゲンガーの迷信より信憑性が高そうと密かに思っている私ですが、数年前電車に乗っているとき、それを裏づけるような出来事があった。
坂口 涼太郎