映画『首』レビュー。「アウトレイジ」を乗り越えて、北野武が到達したのはキッチュでクィアな武士映画(評:北村匡平)
「戦国版アウトレイジ」宣言
北野武の約6年ぶりの新作『首』は、ビートたけしに加え、加瀬亮、西島秀俊、浅野忠信、小林薫、中村獅童といった豪華俳優陣が集結し、広く知られる「本能寺の変」を題材に壮大なスケールで描かれた戦国スペクタクル時代劇である。初期の名作『ソナチネ』(1993)の時期に脚本が書かれたというから、構想からじつに30年ものあいだ、温めていた企画ということになる。男組織の抗争を描く点で『首』は、シナリオ執筆時と同時期の『3-4X10月』(1990)や『ソナチネ』を彷彿とさせるが、本作が明示的に参照し、乗り越えようとしているのは「アウトレイジ」シリーズであろう。 劇中画像をすべて見る 事実、『首』の序盤は、天下人につかえる家臣たちを横移動のカメラで映すと、次に頂点に君臨する織田信長をフレームの中心に据え一点透視図法で捉える。これは山王会という巨大組織のヒエラルキーを視覚的に描きわけた『アウトレイジ』(2010)の序盤の引用になっている。その直後に信長が荒木村重の口に刀を突っ込んで掻き回す残酷な暴力も、大友が村瀬の口に差し込んだ歯医者の治療器具で血が噴き出る凄惨な暴力シーンを想起させる。裏切、嫉妬、謀略――「全員悪人」という「アウトレイジ」シリーズのキャッチコピーのごとく『首』にも善人はいないし、正義もない。序盤のシーンは、トップの「首」を獲るために野心を燃やすヤクザの抗争を、前近代に移し替えた「戦国版アウトレイジ」という宣言だ。とはいえ、過去作への目配せは自身の作品にとどまらない。 これまでもブレッソンやゴダールといった巨匠との類縁関係が指摘されてきたが、誰よりも影響関係が深いのが黒澤明だろう。殺陣のシーンのスローモーションの使用やグロテスクな傷跡の可視化、そしてオーバーな刀の斬殺音と飛び散る血しぶきなどの黒澤時代劇の残酷描写は、たとえば『座頭市』(2003)や「アウトレイジ」シリーズに散見される。『首』のバイオレンスもこうした映画の系譜にあり、スクリーンを引き裂くような強いワイプの画面処理も黒澤映画を感じさせる。実際、黒澤が生前、「これを撮れば、『七人の侍』と並ぶ傑作が生まれるはず」と期待したというから、間違いなく北野武の脳裏には黒澤明の存在と『七人の侍』があっただろう。北野武は、絶えず自ら作家性を解体することも厭わず、新たな表現に挑戦し続けてきた映画作家だ。『首』もまた、これまでにない主題やかつての映画を乗り越えようとする野心がある。それは何か。