映画『首』レビュー。「アウトレイジ」を乗り越えて、北野武が到達したのはキッチュでクィアな武士映画(評:北村匡平)
極上のBL戦国映画
端的にいえば、北野武が本作で描き出した、これまでにない要素とは男同士の愛憎劇である。むろん、かつてのヤクザ映画でも「ホモソーシャル」な欲望は濃厚に描かれてきた。近年、この言葉はネット上を中心に広く認知され、気軽に使われるようになったが、本来はイヴ・K・セジウィッグが著した『男同士の絆――イギリス文学とホモソーシャルな欲望』の議論が根底にあり、女性を媒介にした二人の男性間において、女性を排除するミソジニー(女性に対する嫌悪や蔑視)と、ホモフォビア(同性愛に対する嫌悪や恐怖)によって成り立つ親密な関係性のことを指す。すなわち、男同士のホモソーシャルな絆は、女性を嘲笑したり蔑んだり、ホモセクシュアルを抑圧したり揶揄したりすることで強化されるのだ。 たとえば『3-4X10月』での上原と玉城、純代の三角関係からは女性を贈与として扱い、女性に暴力を行使するミソジニーとホモフォビアが見出され(男同士の性的な接触は「ネタ」のように演出されている)、典型的なホモソーシャルが築き上げられている。その後のヤクザ映画『BROTHER』(2001)や『アウトレイジ』シリーズでは、女性キャラクターはほとんど姿を見せなくなる。けれども、男同士のエロティックな接触もなくなり、男性間には厳密な距離が保たれ、ホモソーシャルを保持するためにクィアな要素はテクストから排除されてしまった感があった。そんななか『首』は、ホモエロティシズムへと一気に振り切れた作品になっているのだ。 男組織の同性愛を描いた時代劇として有名なのは大島渚の『御法度』(1999)だろう。松田龍平演じる若い美少年が、持ち前の魔性によって男を次々に魅惑し、新撰組組織の秩序を混乱に陥れてゆく。ミステリアスで妖艶なイメージをあてがわれたこのオム・ファタールは徹底して異端視され、「バケモノ」として排斥される。男同士の性愛も美化され、架空のものとして仕立て上げられている。こうして組織に跋扈する強烈なホモフォビアによって、同性愛者はスティグマを負わされるのだ。だが、日本では古くから男色が当たり前のように流行していたことは周知の事実であり、これが徐々にタブー視されるようになったのは、明治維新とともに西洋化を推し進めるようになってからである。したがって『御法度』は、男色がそれほど悪とみなされていない幕末を舞台にしながら、同性愛が禁忌であるという西洋的価値観の前提で物語化しているといえる。 そのいっぽう、『首』における同性愛者の睦み合いは公然と描かれている。もちろん、戦国時代において、身分や年齢差がある男同士の性愛、いわゆる衆道はタブーではなく男色が広く浸透していたことはよく知られている。男同士のホモセクシュアルな欲望とホモソーシャルな絆は明確に切り離されることなく連続的なものだったし、男同士の性愛も公認されていた。こうした時代背景のもと、北野武は同性愛的欲望を思う存分スクリーンに炸裂させ、現代社会のアクチュアリティを提示できている。加瀬亮が怪演する織田信長は狂気に憑かれ、何をしでかすかわからない恐ろしさと危うさがある。西島秀俊が扮する明智光秀は忠義を尽くす信長に幾度もいたぶられる。遠藤憲一演じる荒木村重は謀反を企て愛に溺れ、嫉妬に狂う。本作では異様な狂気とブラックユーモアたっぷりの笑いが混じり合い、クセの強い三人の愛憎劇が物語を引っ張ってゆく。BLファンにとってもたまらない極上のBL戦国映画になっているだろう。