映画『首』レビュー。「アウトレイジ」を乗り越えて、北野武が到達したのはキッチュでクィアな武士映画(評:北村匡平)
多種多様な人物模様と欲望
いっぽうにはストーリーを駆動させる男同士の愛欲というメロドラマがあり、もういっぽうには裏で誰が絵を描いたのかという陰謀のサスペンスがある。これらが巧く絡み合いながら進んでいくシナリオが秀逸で、入り組んだ知的なプロットと暴力描写はクエンティン・タランティーノを連想させる(ただし、タランティーノが冗長な会話劇で進むのに対して、北野武は台詞を最小限にして絵で語っていく映画作家だ)。そこにシュールなコメディの要素が加わり、北野映画のなかでも、もっともジャンル混淆した型に嵌まらない魅惑的な作品に仕上がっている。 さらに映画史的記憶が喚起させられる点も愉しい。オープニングのタイトルバックでは黒い漢字の「首」が赤色に変わって、上方が刀の斬殺音とともに切り落とされる。このグラフィック・デザインはヒッチコックの『サイコ』(1960)の切り刻まれるクレジット、あるいは黒沢清の『cure』(1997)の名前が切断されるエンドロールを彷彿とさせる。冒頭で謀反を企て、城を囲まれた荒川村重が廻縁で矢を放たれるシーンは、黒澤明の『蜘蛛巣城』(1957)の終盤で下から無数の矢を浴びる三船敏郎を思い出さずにはおれない。貧しい百姓の中村獅童が大将の首を狙って戦国大名に成り上がろうとする姿は、溝口健二の『雨月物語』(1953)で敵大将の首を拾い、手柄を立て、侍になろうとする藤兵衛が重ねられるだろう。本作は自作を含む数々の映画史へのオマージュがちりばめられているのだ。 さて、それでは北野武の『首』は、自身の過去作や戦国時代を描いた黒澤明の傑作時代劇『七人の侍』(1954)に対して、何をなそうとしているのか。まずは上述したように、自身の作品の閉塞したホモソーシャルな絆の世界に亀裂を入れたことに加え、黒澤時代劇では検閲の関係で描けなかった男同士のホモセクシュアルな欲動を前面に押し出したこと、すなわち『七人の侍』のテクストに潜在していたホモセクシュアリティを可視化したことがあげられる。そして『首』には、初期から北野映画を支えていた男のロマン主義的な死の美学はなく、黒澤映画に見出されるヒロイズムもいっさいない。 『首』の登場人物は誰もが人間臭く滑稽で、ドロドロとして生々しい。農民と武士の図式的な対立だけでなく、武士、百姓、僧侶、忍、茶人、芸人など多様な人物が入り乱れ、欲望と嫉妬をむき出しにして動乱の世を生きている。「武人の本分が立たない」と首にこだわる武士たちに対して、農民出身の秀吉は武士の様式美にはまったく関心を向けない。とりわけラストシーンで秀吉がとる皮肉たっぷりのアクションが痛快でたまらない。世界の巨匠が作り上げた待望の新作『首』は、こうしたキッチュかつクィアな世界観で多くの映画ファンを虜にするに違いない。