世渡り上手で愛嬌ある屈託のない性格の持ち主・豊臣秀吉は実は「残虐性」をもった鬼将だった⁉【イメチェン!シン・戦国武将像】
ひとたらし、世渡り上手、明るく千恵のある性格、人に好かれたなど豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天下人に至った要素として挙げられるものは武力ではなく、人間性を語られることが多い。しかしながら、秀吉の戦歴を見ると、明るい人柄などは全く垣間見られない。 本能寺の変後の中国大返し、明智光秀を討ち取った山崎の戦い、柴田勝家を制した清洲(きよす)会議と賤ヶ岳(しずがたけ)合戦など、羽柴秀吉は誰にも一歩先んじて奇跡的な成果を挙げた。これらが秀吉の「人望」だとか「ひょうきんで型破りな性格」「苦労人として人情の機微に通じていたこと」などによるもの、と評価された。しかし実際の秀吉はどうであったか。近年は、晩年に表れた「痴呆状態」では説明できない残酷さが秀吉の本能であったと指摘される天下人の本質である。 賤ヶ岳合戦で、柴田勝家に勝利して「秀吉の天下」は、ほぼ決定した。『太閤記』などの秀吉評価は、明るく、知恵があって、人に好かれ、人を好きな好人物である。だが、秀吉の戦歴を見ると、明るい人柄などは全く垣間見られない。 その残虐性の最初は、織田信長の妹・お市の方を娶(めと)り、信長の義弟になった浅井長政(あざいながまさ)の小谷城を、信長の命令で落とした後のことだ。長政は信長に背を向け、信長の敵であった朝倉義景(あさくらよしかげ)と連繋して戦った。姉川合戦の後も信長に敵対し続ける長政の小谷城を秀吉は天正元年(1573)8月に大軍で攻撃し、落とした。その際に秀吉は、お市の方と3人の娘は助命したが、嫡男・万福丸(まんぷくまる)を串刺しという残忍な殺し方で処刑した。まだ10歳の少年をそうしたやり方で殺したのが、秀吉の残虐始めである。 本能寺の変後、柴田勝家と賤ヶ岳合戦で戦うと、信長の3男・信孝(のぶたか)は2度までも秀吉に離反して勝家に付いた。すると秀吉は信孝の裏切りを許さず、人質にしていた信孝の生母・坂氏と娘たちを処刑してしまった。信孝の生母ということは、信長の側室であることを示す。だが、秀吉は無情にも旧主の側室を殺すのに、その立場(信長側室)も一顧だにしなかった。それどころか、邪魔になった信孝をも、山崎合戦後には、信長2男・信雄(のぶかつ)の手で自刃(じじん)させているほどである。天下を取るためには、なりふり構わない残虐性をみせたのだった。 まだある。天下人に君臨していた秀吉は、文禄4年(1595)7月、自らの甥・関白秀次(ひでつぐ)に腹を切らせると、8月には京都・三条河原で秀次の子女や妻妾(さいしょう)まで合わせて39人の女性たちを次々に斬り殺す公開処刑を行っている。子どものいなかった秀吉は、甥の秀次を自分の後継者にと考えて「関白」の座に就けた直後に秀頼(ひでより)が生まれた。そこで、秀頼のために秀次とその子どもたちを取り除くための処刑が、この惨劇につながったのだった。秀吉の残虐性の極みともいえる。 他にも、同じ年の2月には会津90万石の領主・蒲生氏郷(がもううじさと)が急逝しているが、これもまた秀吉によって毒殺されたという説が古くからある。理由は、秀吉が氏郷について「自分に似ている。俺がやろうとすることを、あいつはそっくり先にしてしまう。恐るべき男だ」と述べている点にある。つまり、氏郷への警戒心が毒殺につながった、という見方だ。これも秀吉の残虐性あればこそ、のエピソードになっている。 秀吉の残虐性の最たるものが、朝鮮出兵で、朝鮮で討ち取った将兵の首は重くて大変だから、替わりに鼻や耳を切り取って日本に送るように命令している。数万という鼻・耳が日本に届いたが、これらの中には将兵ではなく、一般民衆のものも多くあったという。「猿」と呼ばれた愛嬌の裏には、秀吉の恐るべき素顔が隠されていたのだった。
江宮 隆之
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