【泉房穂×菅孝行 徹底討議】政治によって「世界全体の作者」になる
こだわらなければいけない過去
菅あの世代から女性の演出家が輩出しますが、そのなかでも如月さんはすごい人だった。残念ながら2000年、44歳という若さで亡くなってしまったけど。 泉当時のイメージで言うと、私は芝居の世界を現実社会でやりたい感じだったかも知れない。好き嫌いは割れるでしょうけど、野田さんは当時から独立した世界を作ってました。それを「劇場の中の世界だけで終わることなく、実社会で新たな発想で作れないか」と思いながら観てましたね。菅さんも最初、演劇には、役者から入ってますよね。 菅私は俳優座の養成所十二期に俳優コースで一応受かっています(笑)。 泉最近出された自伝の『ことにおいて後悔せず 戦後史としての自伝』(航思社、2023年)を読んでも、最初は役者からですよね。 菅不幸にしてそれが60年安保の年だから、それも一つの原因で初志貫徹できませんでした。養成所の世界は共産党系でもある。俳優座のトップの千田是也さんは共産党と緊張関係がありましたが、周りはほとんど旧左翼の共産党系です。俳優座に通い始めたところで、1960年6月15日、樺美智子さんがデモの渦中で死んだので、「本当の闘争は、全学連主流派のデモの側にあるんじゃないか」と思って、4カ月で辞めた。 演劇から完全に離れたわけではなかったけれど、普通の大学生に戻って、闘争の潮が全部引いちゃったあと、1年半ぐらい活動家もどきをやっていました。翌年は、デモの隊列は100分の1から1000分の1になった。全都でたかだか80人のデモとかですよ。残念ながら、演劇的な発想で世界を動かす、という次元からはもう遠かったです。でもまあ、そこで私の物心がつき、膨らんだり挫折したりして、85年が過ぎたわけですが。 泉私は東京に来たときに、樺さんが亡くなった衆議院の南通用門で花を置きました。私は高校時代に樺さんにあこがれというか、好きやったので。樺さんは神戸高校を出た兵庫の人ですし、ご縁を感じていて、勝手ながら高校生のとき「東京に行ったら、南通用門で花を置こう」と思っていて、大学に入った最初のときに、置きました。高校生のときに好きやったのが樺さんです。 あとは、全共闘運動の渦中にいて自ら命を絶った高野悦子さんの『二十歳の原点』(新潮社、1971年)と、立命館大生だった高野さんが通った京都のジャズ喫茶「シアンクレール」、そのあたりが、今で言うところの私の聖地ですね。 昔話です。最後は、センチメンタルな話になりましたね。 菅私はセンチメンタルな振り返り方はしないほうなんですが、こだわっておかなければいけない過去というものはありますよね。(了) 《連続対談をはじめから読む》【異色対談】泉房穂が東大時代の「恩師」と40年ぶりに会った…「80年代の駒場で〈第2次全共闘〉をやろうと思っていました」
泉 房穂、菅 孝行