庶民が見た幕末をかわら版が活写 ヒーロー抜きの尊王攘夷、歓喜と不安と恐怖
2017年は大政奉還150周年記念の年です。今後、幕末、明治維新などをテーマにしたテレビ番組、書籍などを数多く見かけそうです。その際、幕末の志士たちの行動を中心に描かれることが多いのではないでしょうか。 一方、江戸の庶民は幕末の混沌とした空気の下、何を見て何を感じていたのでしょうか? その手がかりのひとつになる当時の資料が、かわら版です。平和な時は庶民の下世話なネタでもうけ主義に走り、災害時などには真実を伝えようとジャーナリスト魂を燃やして活躍したかわら版屋。彼らはこの幕末をどのように切り取って伝えていったのでしょうか? 大阪学院大学の准教授、森田健司さんが解説します。
幕府の思惑知らず、庶民が熱狂 バカ売れかわら版「和宮降嫁の大行列」
1861(文久1)年10月20日。この日の午前8時頃、前代未聞の大行列が京の都を出発した。行列の総員は、約3万人。これが、道幅の狭い中山道を江戸に向かうことになるのだから、それはもう大騒ぎである。場所によっては、行列の長さは50キロメートルに達したとも伝えられる。 この行列の「主役」は、和宮親子(かずのみやちかこ)内親王(1846~1877年)。孝明天皇の(1831~1866年)異母妹である。この度の下向は、時の将軍、徳川家茂に降嫁するためだった。 ペリー来航以来、外圧によって目に見えて弱体化した幕藩の権威だったが、そこに切札として投入された政策こそが、後に「公武合体」と呼ばれるものだった。端的に言えば、朝廷(公)と幕府(武)の協力関係を深めることによって、体制の立て直しを図ろうとするものである。家茂に和宮が降嫁するという案は、ここから生み出されたものだった。 しかし、そのような政策もその背景も、当時のほとんどの庶民は知る由もない。彼らの目の前に広がったのは、生きてきた中で一度も見たことのない大行列である。もちろん、皇妹が徳川将軍家に輿入れするということぐらいは知っていたが、庶民にとっては「お祭り騒ぎ」以外、何物でもなかった。この点で黒船来航時と、とても似ている。 冒頭に掲げたのは、この和宮降嫁の大行列を報じるかわら版の一部である。豪華絢爛な衣装に身を包んだ人々が、どこまでも続いている様子が描かれている。珍しく冊子型のこのかわら版は、掲載した絵以外にも、行列に参加した大名の名が、武鑑(諸大名、旗本の氏名、石高など様々なデータを掲載した書物)の形式で長々と記されている。 事実、この大行列の護衛のために、12もの藩から人員が出された。それのみならず、移動の際の沿道警備に、29藩があたっている。庶民が興味を持ち、熱狂しつつ見物したのも無理はない。 これほどまでに大袈裟な輿入れは、ただ儀礼的な理由から行われたわけではなかった。大金と大人数を投入し、限界まで豪勢なものとすることによって、朝廷の威光を内外に示し、それに保障された幕府の権威を見せ付けることを狙ったのである。 そのような思惑とは別に、かわら版屋は行列絵図を載せた刷り物で、大いに潤った。だから、彼らはこういった大行列が再び行われて欲しいと願ったことだろう。しかし、まさかその願いがすぐに実現するとまでは考えていなかったはずである。