慶應義塾高、慶大の“レジェンド”元南海右腕・渡辺泰輔さん “最後の取材”で感じたこと
鮮明だった65年前の記憶
今夏の甲子園で、慶應義塾高(神奈川)が107年ぶり2度目の全国制覇を遂げた。 同校野球部の歴史にスポットを当てた特集本の編集にあたり、欠かすことのできないレジェンドがいる。本格派右腕として活躍した渡辺泰輔さん。福岡県直方市内の自宅へ向かった。渡辺さんは慶大4年春(1964年)の立大2回戦で東京六大学リーグ史上初の完全試合を達成。当時の思い出話を聞いて以来、8年ぶりの取材だった。 【選手データ】渡辺泰輔 プロフィール・通算成績 渡辺さんは直方二中時代から実力を発揮。当時、福岡県内の高校野球をリードしていた、小倉高へ進学する予定だった。すべては甲子園に出場するための選択だった。 ところが、人生の転換期を迎える。渡辺氏の兄が修猷館高から慶大野球部(マネジャー)に在籍し、知人からの強い推薦もあり、地元・福岡を離れ、神奈川で白球を追うことに。東京六大学リーグ、神宮球場へのあこがれもあり、慶大での4年間も見据えての決断だった。 1960年春のセンバツ8強。当時、黄金期を築いた法政二高と県内でライバル関係にあった。3年夏は2年生エース・柴田勲(元巨人)を擁する法政二高のとの県大会決勝を延長11回で惜敗し、春夏連続甲子園出場を逃した。慶大では通算29勝、南海ではパームを武器に通算54勝。72年の引退後は家業を継いだ。 渡辺さん宅の玄関を上がってすぐ右の応接間は「渡辺泰輔ミュージアム」となっている。夫人が玄関前で出迎えてくれた。渡辺さんはすでに、ソファーに座っていた。 「腰を悪くしてから、出歩けないんですよ」 応接間の棚には慶應義塾高、慶大、南海と、現役時代の資料が並んでいた。8年前の取材の際には、慶大4年春の完全試合達成時のテレビ中継を録音した音源(テープを落とし込みしたCD)を聞かせてもらった。新聞スクラップも大切に保存。渡辺さんによれば「すべて私がやりました」。マメな性格である。 65年前の記憶は鮮明だった。慶應義塾高は当時から丸刈りではなく、髪型は自由。監督は慶應義塾高出身で、慶大野球部の4年生が派遣されていた。「兄貴から教わっているような感じです。野球部の事情もよく分かっていますから、皆、明るいし、楽しい。先輩とも兄弟みたいな感じ」。理不尽な上下関係はなく、風通しの良いムード。精神野球が一般的だった昭和の高校野球とは、一線を画していた。