『虎に翼』を支えた松山ケンイチ×小林薫×滝藤賢一 最終週を前に考えたい桂場の“葛藤”
ついに最終週を迎えた『虎に翼』(NHK総合)。寅子(伊藤沙莉)が転機を迎える際には気が付けば傍にいた桂場等一郎(松山ケンイチ)が最高裁長官となり、彼自身の「裁判官は孤高でなければならない」という言葉通り孤立を深めているのが気になる。 【写真】満面の笑みを見せる晩年の多岐川(滝藤賢一) 「司法の独立」にこだわるあまり独裁的とも思える人事を行い、尊属殺の重罰規定が違憲かどうかを今一度判断するように仰ぐ意見書を時期尚早だと切り捨てる。「正論は見栄や詭弁が混じっていてはだめだ。純度が高ければ高いほど威力を発揮する」とはかつて桂場が寅子に放った言葉だが、今や全てがブーメランとなり自らに返ってくる。 仏頂面で無愛想、ただでさえ言葉少なな上に嫌味っぽい。神経質で潔癖な桂場だからこそ、真の意味で“汚い足に踏み入られない”司法の独立が叶えられるかと思いきや、どうも桂場には焦りが滲み彼自身のこれまでをも自らが切り捨ててしまっているかのようにも見える。 桂場を演じる松山は本作が朝ドラ初出演。無表情な桂場の中にも意表を突くような間合いや声色、眼差しで、感情の機微や変化を見せ、常に物事と慎重に距離を取ろうとする彼の公平さを見せてきた。そう言えば、寅子が法学の道に進むと言い出した際にも「時期尚早」「反対」と言っていたが、まだ社会にその準備が十分になされていないことを重々わかっているからこその、彼女を思いやっての桂場なりの発言だったのだろう。桂場の甘味への真剣さや一途さも彼への取っ付きやすさに繋がっており、なんだかんだ愛すべきキャラクターであることが伝わってくる。 寅子にとっては桂場と自らそれぞれに脈々と受け継がれていると信じているからこそ、その表出の仕方が異なることに戸惑いを隠せないのが“穂高イズム”だが、彼らにとって共通の恩師であり共通言語とも言える穂高重親(小林薫)の存在はいまだに大きい。 穂高役を担った小林薫は、本作が3作目の朝ドラ出演だ。穂高は弁護士法の改正に尽力し、明律大学に女子部を創設し、寅子を法律家の道へ導いた張本人。本作で何度も繰り返し登場する「雨垂れ石を穿つ」という言葉をその時々の寅子に送ったのも穂高だった。小さな努力の結果が成功に繋がるという意のこの言葉を、岩に穴を開けるまでの主体者としての雨粒としてだけでなく、自らは穴を開けられなかったもののその一助になった雨粒に過ぎないという意味合いで使用する度に寅子を心底失望させ、怒らせてきた穂高。 しかし、きっと穂高はどこかで寅子を自らが茨の道かつ地獄の道に招き入れたことに対する責任感を抱えており、途中でもしその道を寅子が手放したとしても、それは“立派な雨垂れ”だったという逃げ道を常に用意していたのではないだろうか。熱血漢というわけでは決してない穂高の適度な距離感を伴っての寅子との向き合いには、彼の自省の念や、寅子の苦しみや「はて?」に完全には寄り添い切れない、自身へのもどかしさや諦念もどこかであったように思える。