海底の坑道には、今も183人の遺体が閉じ込められている…82年たっても政府が調査に後ろ向きな理由 山口「長生炭鉱」の犠牲者と、戦没者との差
砂浜に立つと、海面から2本の巨大なコンクリート塔が突き出しているのが、数十メートル先に見える。その下には、今も183人の遺体が沈んでいる。 【写真】撤去され更地となっていた 朝鮮人労働者の追悼碑
太平洋戦争中の1942年2月、山口県宇部市沖の海底にあった「長生(ちょうせい)炭鉱」で水没事故が起き、労働者が坑道に閉じ込められた。犠牲者183人のうち136人が、戦時動員された朝鮮人だった。 地元で長年、追悼や真相究明の活動を続けている市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」は昨年12月、「遺族は高齢で、残された時間は少ない。遺骨を日の当たる場所に出してほしい」と政府に発掘調査を求めた。 しかし、地元選出の林芳正官房長官は今年1月、「埋没位置や深度が明らかでない。調査は困難」と拒否した。80年以上たっても、遺骨に光は当たらないのだろうか。(共同通信=丹伊田杏花) ▽水非常 長生炭鉱は瀬戸内海に面した山口県宇部市の床波海岸で、大正初期ごろに開鉱された。「山口炭田三百年史」などによると、最盛期の1940年には約15万トンの石炭を産出し、992人が働いた。 宇部市石炭記念館の広畑公紀学芸員(41)は「宇部にあった炭鉱の一つで、中小規模だったとされる」と解説する。
当時、日本は朝鮮半島を植民地支配し、戦争が拡大するにつれ不足する労働力を補うため、朝鮮人を動員していた。宇部市史によると、長生炭鉱では多くの朝鮮人が働いていたことから、「朝鮮炭鉱」とも呼ばれていた。 水非常(みずひじょう)と呼ばれた水没事故が起きたのは、1942年2月3日午前だった。坑口から約1キロの沖合で、坑道の天盤が崩壊。海水が流れ込み、中にいた朝鮮人136人と、広島や沖縄出身などの日本人47人が死亡した。 犠牲者の遺骨は引き揚げられないまま、戦後に閉山。現場の海面には今も当時のまま「ピーヤ」と呼ばれる2本のコンクリート排気筒が残り、往時をしのばせる。 ▽死者への手紙 「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」は、1991年に結成された。市内の西光寺にある犠牲者の位牌や、当時の資料などをもとに、犠牲者の住所地に手紙を送った。 事故から50年が過ぎていたが、予想に反して17通もの返事が届いた。「お父さんが亡くなった場所が分かっただけでもうれしい」「日本に行ったきり消息が分からなかった」などの内容だった。