田家秀樹が語る、吉田拓郎が今伝えたい選曲を収録したセレクション・アルバム
俺の音楽はこっちなんだということを自分で曲を選んで、自分で語ろうとしているアルバム
風邪 / 吉田拓郎 お聴きいただいたのはDisc1の5曲目「風邪」。1973年6月に発売になったアルバム『伽草子』の中の曲ですね。これはご本人が選ばなかったら、なかなかベスト・アルバムには入ってこないタイプの曲でしょうね。このアルバムはキーボードが柳田ヒロさん、ベースが後藤次利さん、新六文銭というバンドがありましたね。他には小室等さん、サイドギターです。そしてチト河内さん、ドラム。で、リードギターが拓郎さん。拓郎さんのツアーバンドとして結成されて、ツアーはやったものの音源は残ってないんですね。なんで残ってないかというのは、これは調べればすぐ出てきますから、ぜひ一度新六文銭でお調べいただけたらと思います。 そのメンバーが中心のアルバムの中からこの「風邪」を選んでいるんですね。ライナーで書かれているのは、やっぱりフォークとリズムアンドブルース。エレキギターとフォークギター、そういう違いですね。広島でリズムアンドブルース、ロックバンドでエレキギターを弾いていたのでフォーク・ソングのシンプルなコード進行が物足りなかった。オーティス・レディングとか、サム・クックは当時としては画期的なコード進行が使われていたというようなコード進行の話を書かれています。かなりこれも長いですね。自分の曲の中にはそういうシンプルなコード進行でも、ディランとかストーンズとか、アレサ・フランクリンとか、そういう人たちのフェイクを取り入れた。具体的にどういうコードなのかというコード名も挙げて解説してくれていますね。 当時、今もですけども拓郎さんの曲をそういうふうに解説したり、語ったりする評論家もライターもいなかったと思います。これはもう自分の非力を恥じるしかないんですけども、そういう評価をされなかったことが彼がずっと抱えてきた不満だった。俺は音楽についてきちんと評価されてこなかったんじゃないかという、ある種のトラウマを持ち続けていたんでしょうね。そういうことが文章から伝わってくる。そんなライナーノーツでもありますね。世間が持っている吉田拓郎に対してのアナザーサイド、違う面があるんだよ俺は、俺の音楽はこっちなんだということを自分で曲を選んで、自分で語ろうとしている。そんなアルバムじゃないでしょうか。 たえこMY LOVE / 吉田拓郎 Disc1の7曲目「たえこMY LOVE」。1976年のシングルですね。この前の6曲目が1983年のシングル『I’m In Love』。曲順が発売順じゃないんですね。この曲の後にはこれを聴きたいという、彼の気持ちよさ、彼の中のストーリーみたいなことが表れているんでしょうね。寝る前に自分で作ったプレイリスト、これを子守唄のように聴くんだという話は、彼も自分で話していますし、ライナーにはそんな記述も出てきます。この26曲はそういうアルバムでしょうね。1976年、1975年にフォーライフ・レコードを作ってつま恋のオールナイトがあったりして、激動の年になって吉田拓郎は時代を変えるシンボルになったわけですが、そういうことは一切触れていませんね。この曲のライナーに書かれているのはやっぱり「青春」です。「青春と反抗」。上京して慣れない東京と戦っていた。古いものに巻かれるのは嫌だったけど、仲間と徒党を組むのも嫌だった。僕の反抗は僕だけの反抗と思いたかったとまで書いていますね。これが吉田拓郎なんだなと、あらためて思いました。 1977年のアルバム『大いなる』の中に「大いなる」という曲があるんですけども、その中では“大いなる人生 手助け無用♪”と歌っていました。俺は俺でやるんだ、誰の助けも借りないんだ。その姿勢、生き様がかっこよくて、そういうことばかり僕も含めたみんなが書いたから、彼はコード進行とか語られない人になってしまった。このライナーには暴走と走ることの違いについても書いています。いいことを書いているなと思いました。暴走することと、走ることは違うんだ。あの頃は何に対して反抗しているんだろう、青春というのは取り返しのつかない財産だ。胸にきましたね。相槌を打ちました。そういう中で忘れてはならないものに恋というのがあるんだ。この「たえこMY LOVE」はそういう象徴ということで、選んだんでしょうね。 8曲目は1977年のシングル『もうすぐ帰るよ』。9曲目が1975年のシングル『となりの町のお嬢さん』のカップリング「流れる」。まさにアナザーサイドならでは。この「もうすぐ帰るよ」と「流れる」の中ではレコーディングの話と好きな音像について書いていますね。ここまで書いているんだと思った、そんな2曲でありました。お聴きいただくのは10曲目です。これもアナザーサイドならでは。 この歌をある人に / 吉田拓郎 1980年のアルバム『アジアの片隅で』の中の曲なのですが、作詞が松本隆さんですね。『アジアの片隅で』には“ア~ジアの~片隅で~♪”というシャウトのレゲエの曲とか、「いつも見ていた広島」、広島のことを歌っている曲もある。両方とも岡本おさみさんの作詞で、岡本さんの色が濃いアルバムでもあるんですね。そのアルバムの最後の曲が「この歌をある人に」。『アジアの片隅で』の中ではこれも語られてこなかった曲でしょうね。ライナーで書かれいることは作詞家についてなんですよ。岡本おさみさん、喜多條忠さん、松本隆さん、3人の作詞家と仕事をしたけどもそれぞれについて思っていることが書かれております。岡本おさみさんの印象が強いけども、提供曲だと喜多條忠さんと松本隆さんの思い出が深いとか、3人の詞の個性についても触れておりますね。今回の『Another Side Of Takuro 25』には松本さんの詞が3曲選ばれていて、岡本さんの曲が1曲入っているんです。岡本さんと言うと、「襟裳岬」、「旅の宿」、「祭りの後」、「落葉」ずらずらっと出てきますけども、そういう曲は選ばれていませんね。何が選ばれているかと言うと、この曲です。 いつか夜の雨が / 吉田拓郎 1980年5月に発売になったアルバム『Shangri-La』の中の曲ですね。この曲の作詞が岡本おさみさんですね。『Shangri-La』は80年代最初のアルバムです。しかもロサンゼルスのレコーディングだった。今までやったことのないことをやりたいということで、海を渡ったんですね。ザ・バンドの解散のドキュメンタリーを追った映画『ラスト・ワルツ』で使ったマリブのシャングリラ・スタジオ、そこでレコーディングしたんですね。プロデューサーがブッカー・T・ジョーンズ。「グリーン・オニオン」という代表曲がありましたが、今のキーボードもそうですね。岡本さんも現地で詞を書いたという、そういうアルバムです。 ライナーにはそのときのことを書いていますね。ライナーノーツはそれぞれの曲で長さが違うんです。彼の中で言いたいこと、伝えておきたいことというのが違うんでしょう。「どうしてこんなに悲しいんだろう」とか「風邪」とか「ペニーレインでバーボン」は見開きを使って書いているんですけども、大体普通は1曲1ページですね。この曲もそういう扱いでした。海外録音というよりも、このアルバムのプロデューサーがブッカー・T・ジョーンズだったこととか、スタジオがそういう場所だったということでどんなふうに思ったのかということを書いております。 Disc1は12曲目がアルバム『大いなる人』の中の「あの娘に会えたら」。そして13曲目が1976年のアルバム『明日に向かって走れ』の中の「午前0時の街」という曲で終わっているんですね。やっぱりこの2曲もオリジナルアルバムの中ではあまり注目されない、そういう曲で終わっている。なんでそういう曲を選んでいるかというのは、彼が自分で書いたライナーノーツを読んでお確かめくださいというアルバムです。来週はDisc2のご紹介です。