高報酬が支えた「江戸の物流魂」 エンジンなき時代の人力輸送! その仕組みと歴史的背景に迫る
京都には曳舟を担う労働者もいた
信濃国(長野県)・甲斐国(山梨県)・駿河国(静岡県)を縦断していた富士川の曳舟の様子が、『図録 富士川の舟運』(富士市立博物館)に詳しく載っている。それによると、陸の数人は首から胸に綱をかけて舟を引き、舟に残ったひとりがさおでかじを取った。 陸の男たちは、渾身(こんしん)の力をこめて引けるように、足半(あしなか)と呼ばれるかかとのない特殊な草履を履いていた。前かがみになった際に力が入りやすかったという。 京都の高瀬川にも、曳舟の記録がある。 大坂から来た物資は伏見港でいったん降ろされ、小舟に積み替えられると、人足たちが引く共綱(ともづな)によって高瀬川を上っていった(伏見区・三栖閘門[みすこうもん]資料館)。 『都名所図會』に、その様子がリアルに描かれている。 米俵や蒔を積んだ船を、3人の男が首から胸にかけた綱で引っ張る。左に3人の男の姿が見えるが、後ろ(右)にも4人いることから、数艘(そう)の舟が続いていたと見ていい。実際、10艘近くが連なるなど日常茶飯事だったらしい。 高瀬川の曳舟人足は、おそらく水夫ではない。曳舟を専門とする者たちだろう。「職業」として曳舟に従事する人々がいたと考えられる。人手が足りなければ、日雇いも少なくなかったはすだ。 江戸末期~明治初期の逸聞や風俗を記した『明治夜話』にも、次のような一文がある。 「川伝いに綱で舟を引く人々は、雑草や木株の上を越えるように土手上を黙々と体を前のめりにして、賃稼ぎしていたらしい」 何という重労働だろう。人力で船を動かすには時間も要し、下りでは1日で済むところを、上りでは3日~8日かかることも、ざらにあったという。 だが、それだけに賃金は高く、水夫たちに限っては当時の庶民にあって珍しく朝昼晩の3食、白米を食べることができた(曳舟専門の賃金は不明)。社会に必要な流通従事者には、高報酬を与えるのが絶対条件だったわけだ。 翻って、現代はどうだろう――。 ●参考資料 ・江戸期の河川舟運における川運の就航方法と河岸の立地に関する研究/日本物流学会誌 ・川越舟運 斎藤貞夫/さきたま出版会 ・和船2 ものと人間の文化史 石井譲治/法政大学出版局 ・図録 富士川の舟運/富士市立博物館 ・三栖閘門資料館 展示パネル
小林明(歴史ライター)