高田文夫が人生を語り始めた お笑い、映画、歌謡、雑誌編集…「芸能の申し子」 水道橋博士の藝人余録 /8
『映画評論』のオーナーである高田俊郎はセンセーの伯父だった。 『戦メリ』の大島渚監督、迷作『シベリア超特急』の水野晴郎監督も、この雑誌のコラム陣であった。 ◇深夜放送の既成概念を一変させた もちろん高田センセーだって編集長歴としては負けてはいない。 『カジノ・フォーリー』『キンゴロー』『笑芸人』『落語ファン倶楽部』などなど、今でも一級の資料価値を持つ貴重な演芸雑誌の数々を出版してきた。 76歳にして、芸能、映画、歌謡は昭和の頭から令和のケツまでインプット済み。 日々、早朝のラジオから深夜放送までアンテナの朝夜ダチを維持して「YOASOBI」と「新しい学校のリーダーズ」まで分かる76歳はなかなかいない。 「芸は一流、性格三流」の神田伯山がせせら笑いながら「芸人世界のハブ空港」と揶揄(やゆ)しただけのことはあって、飛鳥新社の〝右曲がりのダンディ〟花田紀凱編集長の『月刊Hanada』に連載を持ちながらも、今日もセンセーのラジオは、右、左、ノンポリ、インテリ、無思想、ただの馬鹿……。との「問わず語り」が続く。 「だから言ったろう、マルコポーロとコロンブスだけはやめとけって!」 高田センセーなら、ラジオのゲストに花田編集長が来ようが、Mrs. GREEN APPLEが来ようが、きっと昼ズだけに、朝飯前なのだ。 少年時代のボクが高田センセーを初めて見たのは、NHK『600こちら情報部』のレポーターとしてだった。そしてテレビ東京『三波伸介の凸凹大学校』での、夏井いつきならぬ〝デカい目つき〟の俳句のセンセーでもあった。 もちろん、フジ『オレたちひょうきん族』のスタッフロールにて三宅デタガリ恵介などと共に現れる、「高田ギョロメ文夫」にも目を奪われ、そして何よりニッポン放送『オールナイトニッポン』での、史上最速の投手・ビートたけしの豪速球を受ける捕手役としての高田文夫の存在に心を奪われた。 後に松村邦洋くんの持ちネタになる「バウバウ」と聞こえる合いの手に放つ、多彩な言葉の数々。キャッチングの正確さだけではなく、その返球も速いことに、宮藤官九郎少年のように「適切に」気がついていた。