東日本大震災で亡くなった外国人たちの歩みから見出す、「ひとが生きる理由」
いまだに「震災での外国人の犠牲者数を誰も把握していない」という事実に衝撃を受けたルポライター・三浦英之氏は、そうした人々が異国の地で生きた証を取材し、一冊の本にまとめた。「震災を書く」とはどういうことか。同じく震災を取材し続けるジャーナリスト森健氏が、決して容易には手に入らないその答えの輪郭を、三浦氏新刊『涙にも国籍はあるのでしょうか―津波で亡くなった外国人をたどって―』の中に手探りする。 * * * どんなものを書いていますかと聞かれることがある。政治、科学、社会問題などさまざまあるが、答えにためらうものが一つある。震災だ。 実のところ、東日本大震災については、広く関わってきた。発災の年だけでなく、現在に至る13年間、毎年さまざまなテーマで取材を行ってきた。水産業と暮らし、原発の廃炉作業、災害公営住宅の居住者の減少、発災時の首相や復興庁高官へのインタビュー……。 けれども、ある時期以降、できるだけ避けてきものがある。被災した人たちの話、いわゆる人物ものだ。 やっていなかったわけではない。発災から2~3年はそうした取材を積極的にしていた。岩手、宮城、福島でおよそ150以上の家族に話を聞き、あのとき、あの場所を生き抜いた話、大事なものを失った話、再起を目指す話をさまざま書いてきた。あの地域の人にとっては誰にとっても、震災は悲劇であったし、乗り越えようともがく姿は、人の営みとして描くに値するものでもあった。 ただ、3年を過ぎる頃から、そうした取材に次第に躊躇を覚えるようになった。災害公営住宅の供給などで住居が再建され、新しい暮らしが模索される中、彼らを「被災者」と呼び続け、「被災者」という目線で取材する。そのこと自体が彼らの歩みを阻害しているのではないかと感じるようになったからだ。
「震災」を書く難しさ
発災から一定の期間を過ぎ、生活が安定すると、彼らの悩みの多くは他の地域で暮らす人たちの悩みとあまり変わらなくなった。子どもと学校、仕事と暮らし、老いや病、地域と人間関係……。あのとき、かけがえのない家族や思い出のつまった家が失われた──。そんな話も出ないわけではないが、どちらかと言えば、避けがちになった。 だとすれば、特別の理由がないかぎり、「被災者」としての彼らを取り上げ続けるのはおかしいのではないか──。そんな考えが強くなり、震災から5年を境にいわゆる人物ものは控えることにした。 だからといって、それ以外のテーマが簡単なわけでもない。現地と関わりが増えれば、友人も増え、事情も理解していく一方、書きにくくなることも増える。 防潮堤や盛土の高さ、地域や街の復興計画、各種助成金、避難指示区域や東京電力からの賠償金のあり方……。きびしいことを書かねばならない局面はしばしばあった。現地の立場に立てばよいと思えることも、それ以外の地域の人にとっては見直しを迫る視点になることがある。どちらの立場に立つのか、判断を迫られたことは一度や二度ではない。誰に向けて何を伝えようとしているのか。伝える側の責任や見識が問われることでもあるからだ。 仕事のテーマを問われたとき、(毎年やっていながらも)震災をテーマと口にすることにためらいを覚えてしまう自分がいるのは、そんな事情があるためだ。