明大の黄金期築いた田中武宏監督 ブルーバード売った営業マン時代がスカウト力の原点
東京六大学野球秋季リーグの優勝決定戦が12日に行われ、早大が4―0で明大を下し、2季連続48度目の優勝を果たし、13度目の明治神宮大会(20日開幕)出場を決めた。中2日で先発した最速151キロのエース右腕・伊藤樹投手(4年)が3安打完封勝利を挙げ、ベストナインにも選出された。楽天からドラフト1位指名された明大・宗山塁主将(4年)、今季限りでの退任を表明していた田中武宏監督はラストゲームとなった。 22年春~23年春まで明大では戦後初のリーグ3連覇に導いた名将・田中武宏監督。試合後は両校の応援団によるエール交換を目に焼き付けた。5年間の指揮を終え「終わってみれば早かったなと。最初の2年はコロナの影響でなかなか思うようにできなかった。通常通りとなった22年からは本当にあっという間に過ぎたと感じます」と振り返った。 明大は15年連続ドラフト指名中で、昨年は上田希由翔主将がロッテ1位、今年は宗山塁主将が楽天1位でプロ入りを果たした。素質を伸ばす指導力とともに自ら全国各地を飛び回る「スカウト力」も武器にした指揮官。リーグ戦で戦ってきた慶大・堀井哲也監督は「彼は昔から凄く実直で野球が大好き。明治を強くするどん欲さがある。そして獲ってくる選手の質が良い。(青学大の)安藤監督か、田中監督かというくらい」と手腕を称賛した。 田中監督のスカウト力の原点は何か。答えは野球から離れていた時期にあった。 *** 田中監督は俊足外野手として明大で活躍し、卒業後は日産自動車で8年間プレー。家族の事情があり、実家のある関西に帰る必要が生じて野球を引退した。当時の監督からは「将来的に監督をやってもらいたかった」。コーチ経験を積んだ後、指揮官を任される構想があったと明かされるも固辞した。バットとグラブを置き、一社員として大阪に転勤する道を選んだ。大阪勤務を2年間続け、日産自動車の販売会社に出向。当時は販売会社でセールス担当を経験することが一般的で、田中監督もそのレールに乗った。この経験が明大野球部を黄金期に導く礎となった。 兵庫日産垂水営業所。仕事はシンプルにブルーバードなど日産車を売ることだった。当時は販売するテリトリーに制限はなく、必要とあれば全国各地に出張することができた。そこで力を発揮したのが野球で築いた関係だった。日産自動車野球部時代の後輩が所属していたオリックスや阪神の寮に出向いた。「あ、イチローだっ!」と後に世界的プレーヤーになる選手を見かけることは日常。さらに社会人野球の神戸製鋼や松下電器の選手にも売り込んだ。 3年間で約120台を売り上げ、あまりの営業成績に「出向期間を延長してくれ」と頼まれたほどの好成績だった。野球関係者以外にも売りに売った。ショウルームに来店した顧客が家族であれば、会話の中で誰がサイフを握っているかを見抜き、臨機応変なアプローチで契約を取っていった。限界まで値引きしても購入しない顧客には野球選手のサインをプレゼントしたこともある。売るためには手段を選ばないモーレツぶりに周囲からは「地道にやった方がいい」と咎められたが、「またすぐに(本社に)戻らないといけない。俺には時間がないねん」と短期間での結果を追い求めた。 そんな多忙な日々を送っていた頃、再び日産自動車野球部とのつながりが生まれた。同部は愛媛県今治市でキャンプを行っており、関西からは車で行くことができた。サポートを頼まれたことからチームとの関係が始まり、全国大会の都市対抗で結果が出ると「面白い」と指導のやりがいを感じた。さらにチームに貢献するため、関西の高校、大学の選手をチェックするように。私物のビデオを回し、逸材を見つけたときにはチームに売り込んだ。「採用された選手に日本代表まで行ったヤツがいるんですよ。それは日産自動車の育成が上手かったからですけどね」と笑顔で懐かしむ。 その後は11年に明大のコーチに就任し、20年から監督を務めた。選手を探すスカウト力、そして獲得する交渉力は野球から離れた地元・関西での時間で養われたものだった。「車を売ったときも野球関係のつながりが助けになった。そしてつながりがあって、再び野球を手伝うことになった」と田中監督。人生の経験をつぎ込んだ5年間の指揮で明大野球部の黄金時代を築いた。(アマチュア野球担当キャップ・柳内 遼平)