監督に激怒しトレード志願「この人は無理」 身に沁みた中日愛…「死ぬほど泣いた」理由
3年契約1年目もトレード志願でオリ移籍…ナゴヤDで「死ぬほど泣きました」
「(山田)監督に『名指しで言ってくださいよ』と言ったら『お前とは限らんぞ』って言われて、ああこの人は無理だなと思った」と山崎氏は話す。その後、球団フロントにトレードを志願した。3年契約の1年目だったが「もともと(FA)移籍を考えていたし、ほかでもやれる自信もあったのでね。そんな俺を戦力として考えなくて、3年間飼い殺しにするのなら、もうトレードでもいいんじゃないかと思って、どこか行き先を探してくださいとお願いしました」。 その結果、オリックスへのトレードがまとまり、2003年1月に発表された。「俺、その時、結構もらっていたし、残り2年の年俸すべてをオリックスは払えないということで、中日が半分かぶってくれました」。発表前に山崎氏はこっそりナゴヤドームのロッカーを片付けていた。「(中日の)みんなは、俺のロッカーがもぬけの殻になっていたから『どういうこと、どういうこと』となっていたそうだけど、俺はその頃、あまり人とも会っていなかったのでね」。 それからこう話した。「12月の終わりだったかなぁ、隠れてロッカーを整理した時、1人で死ぬほど泣きました。やっぱり中日が大好きだったから、何でこんなにことになったんだろうって思ってね……」。自分で願い出たこととはいえ、やはり無念だった。愛工大名電高から1986年ドラフト2位で入団する時は巨人ファンで、中日を「嫌いな球団」に入れていたのが信じられないくらい、時の経過とともに“ドラゴンズ愛”が深まっていた。いろんなことを考え始めたら、もう涙が止まらなかった。 当時34歳。「まだよそでやれる自信はあったけど、同時に力の衰えというのも、ちょっとずつ感じ始めていたところでの、あんな出来事だったので、より突っ張っちゃったね。まぁ、山田さんには山田さんの言い分があると思うけどね」と山崎氏は振り返った。ヤンチャな一面、一途な思い……。あの時はああするしかなかったということか……。野球人生の流れも悪かった。苦しい時期、やるせない時期は新天地・オリックスでも続くことになる。
山口真司 / Shinji Yamaguchi