「旭通信社」が大手代理店と肩を並べられた理由と中村局長との出会い[第1部 - 第2話]
国際部に配属されて使うようになった“テレックス”
杓谷:インターネットがない時代に海外とのコミュニケーションはどのように行っていたのでしょうか? 私は1984年生まれなのですが、インターネットが普及する前の海外との仕事の仕方をうまく想像することができません。当時の国際部での具体的な仕事のやり方を教えていただけますか。 佐藤:国内向けのクライアントに対しては、新聞・テレビ・雑誌などの広告を掲載するメディアをプランニングします。一方、国際部は海外向けの新聞、雑誌などへの出稿プランニングなどはあったものの、カタログの制作やイベントのサポートなど、セールスプロモーション的な仕事が中心でした。 カタログの制作といっても、僕が担当していた三菱自動車工業の場合は北米を除く全車種・全世界を対象にしており相当な量と種類がありました。カタログ制作だけでも人が張り付きになります。その他にも、海外で開催されるモーターショーへの出展準備の仕事もありましたが、アメリカはアメリカで独自にやっていたので、ヨーロッパやアジア、中東、アフリカをメインに仕事をしていました。
当時のオフィスでは「テレックス」という機械を通じて海外とのやりとりを行っていました。テレックスというのはタイプライターのような機械で、文字をタイピングするとメッセージが点字のような形で表示されます。そのデータが海外に送られて、海外のテレックス機械で印刷されるわけです。
FAX・メールなどない時代。イギリスのオフィスとは、電話かテレックスでやりとりをしていました。当時、テレックス担当の女性がいて、送りたいメッセージを彼女に渡します。すると彼女がそれをタイプライターで打って送信します。翌日の朝には、返信のメッセージが点字形式で印刷された紙テープが散乱しているわけです。その紙テープを機械に通すと、テキスト形式でメッセージが読めるようになります。今では信じられませんが、そういったやり方で海外とコミュニケーションを取っていました。 日本のテレックス担当者は午後6時で帰宅してしまい、それ以降は自分でテレックスを打たなければなりません。最初は慣れていないので人差し指で、一文字ずつタイプしていましたが、だんだんと両手でタイプできるようになっていきました。僕がキーボードを両手で打てるようになったのは、この時のテレックスのおかげかもしれません(笑)。