「旭通信社」が大手代理店と肩を並べられた理由と中村局長との出会い[第1部 - 第2話]
三菱自動車工業を旭通信社のナンバーワンクライアントに押し上げる
佐藤:中村さんは早朝に出社して、社長にいろいろ企画を差し込むタイプで、もうキレキレな感じでした。とにかく強烈にかっこいい人で、僕はとても尊敬していました。 中村さんは、その昔「これからは自動車だ」という信念があって、三菱自動車工業の前身にあたる三菱重工の自動車部だった頃からアプローチして、PR誌の仕事などを取ってきていました。自動車部が後に独立して三菱自動車工業になると、海外展開を支援するためにオフィスをヨーロッパに作り、北米を除く全世界向けのカタログ制作、印刷、デリバリーが可能なシステムを構築するなど、三菱自動車工業の成長を献身的に支えていました。その結果、全車種、北米を除く全世界向けの広告宣伝を旭通信社が一社で引き受けることになり、三菱自動車工業は国内での扱いも含めて、旭通信社のナンバーワンクライアントになりました。 旭通信社の企業規模では、海外向けの広告制作に必要な優秀な外国人コピーライターを雇うことが難しかったため、彼は自ら制作会社を設立し、2~3人ほどの外国人コピーライターを雇い入れました。さらに、デザイナーも一緒に採用しました。最初はほとんど会社の支援なしで、中村さんが自力で進めていたと記憶しています。 中村さんの尽力を三菱自動車工業もよくわかっていたので、他の大手広告代理店はなかなか入り込めず、「プレゼンすらさせてもらえなかった」と聞いています。当時の僕から見ると、中村さんはすごくカッコよくて、“絵に描いたような広告代理店の営業マン”という感じでした。中村さんだけでなく、一緒に働く仲間達も相当癖の強い猛者たちが集まっていて実に刺激的でした。 中村さんの活躍に比べると、僕は社会人歴も短く経験も少なかったので、「もっと成長しなきゃダメだな」と思ったものです。中村さんの活躍に加え、会社全体も勢いがあり、僕が入社して5年目には、旭通信社が広告代理店として初めて上場を果たしました。僕も少しですがストックオプションをもらっており、その「少し」が思いのほか大きな金額になったことで、「これが株式会社のダイナミズムなんだ」と実感したものです。上場後、それまでの役員たちは次のチャレンジを求めて退職し、僕は「こうやって会社は新陳代謝していくんだな」と、上場の持つエネルギーを肌で感じました。