日本を代表する「異能の経営者」、プロの声楽家だった大賀典雄はなぜソニー入りを決断したのか
■ 「素人集団」の音楽事業で大賀氏が築いた“新しい常識” このように、テープレコーダーだけでなくソニーブランドの責任者ともなった大賀氏は多忙を極めた。それでも盛田氏の「二足のわらじでいいじゃないか」の言葉に従い、しばらくは歌手活動も続けていたが、あるオペラ公演に出演中、あまりの忙しさから一瞬、睡魔に負けた。観客には気づかれなかったというが、大賀氏はこれをもって歌手を引退した。 しかし「音楽家・大賀典雄」の存在は、ソニーにとって多大な恩恵をもたらした。 本連載「イノベーターたちの日本企業史」で盛田氏を取り上げた時にも触れたが、ソニーはAV機器だけでなく、映画、音楽、ゲームなどエンターテインメント事業を併せ持つ、世界で唯一無二の会社だ。 そしてこれは1967年に米CBSレコードと折半でCBS・ソニーレコード(1973年にCBS・ソニーに社名変更、現ソニー・ミュージックエンタテインメント)を立ち上げたことから始まった。CBSレコード幹部と面談した盛田氏はわずか30分で合弁を決断したが、これも大賀氏がいたからこそできたことだった。 大賀氏は当初、専務、のちに社長としてCBS・ソニーの経営をリードし、音楽業界に革命を起こしていく。 まずは社員採用。通常、新規事業を始める時は、同業他社から人材を引き抜く。しかしCBS・ソニーは新聞広告で募集し、経験は問わなかった。「この業界はこういうもの、と思っている人間に新しいことはできない」という大賀氏の考えに基づいた採用戦略だった。 あるいは返品の禁止。当時のレコードは、今の出版業界と同様、返品自由だった。しかし大賀氏はCBS・ソニーのレコードの返品を受け付けなかった。当然レコード店は反発するが、その代わり他社が手形支払いだったものを振り込みとし、支払い期間も短縮した。 アーティストの発掘にも力を注いだ。有名・大物タレントはすでにレコード会社が決まっている。それならまったく新しい才能を発掘して一から育てればいい、と考えたのだ。これはSD(サウンド・デベロップメント)と呼ばれ、今なおソニー・ミュージックの中に息づいている。 ソニーが音楽事業に参入した当時、競合各社は「電器屋に何ができる」と半ばばかにしながら様子見をしていた。しかし実際には「素人集団」ならではの強みを発揮し、CBS・ソニーは急成長。わずか10年で日本一のレコード会社となった。そして返品不可や、新人タレントの発掘などは、音楽業界に“新しい常識”として定着していった。 この大成功を勲章に、大賀氏は1982年、ソニー社長に就任する。そしてこの時から「ハードとソフトの両輪経営」が本格化していく。それがいかなるものだったのか、後編で詳しく紹介する。 【参考文献】 『SONYの旋律 私の履歴書』(大賀典雄著) 「Genryu源流:ソニー創立50周年記念誌」(ソニー広報センター編) 「月刊経営塾」(1995年臨時創刊号/「一冊まるごとソニー」)
関 慎夫