日本を代表する「異能の経営者」、プロの声楽家だった大賀典雄はなぜソニー入りを決断したのか
ソニーグループは世界で唯一無二の会社だ。電化製品を製造販売して世界のトップブランドとして認知を得ているだけでなく、映画・音楽・ゲームビジネスでも世界トップクラスの実績を残している。なぜソニーだけにそれが可能だったのかというと、大賀典雄氏(1930年─2011年)という「異能の経営者」の存在があったからだ。 【写真】1951年、参議院労働委員会にお目見えした日本初のソニー製テープレコーダー「G型」 ■ 日本初のソニー製テープレコーダーにクレームをつけた ソニー(現ソニーグループ)にエンターテインメントビジネスを定着させた大賀典雄氏は「異能の人」だ。容貌魁偉(ようぼうかいい)とは大賀氏のためにあるような言葉で、体だけでなく目・鼻など顔のパーツも大きい。しかも「自信満々居士」だった。自らの功績を語る時は一切のてらいがない。会う人すべてに強烈な印象を残す経営者だった。 経歴を見ても異能ぶりは一目瞭然。1930年静岡県生まれ。旧制沼津中学(現沼津東高校)卒業後、日比谷公園で聞いた声楽家の歌声に感動し、東京芸術大学音楽学部声楽科に進学する。卒業後はドイツに留学し、ベルリン音楽大学を首席で卒業する。この「首席卒業」も、大賀氏自ら語っていたものだ。そしてその後はプロのバリトン歌手として活躍した。 音楽好きの経営者はいくらでもいる。バンド活動を行い、時には人前で披露するというケースも多々ある。しかし、プロの音楽家から経営者、しかも日本を代表する企業の経営者に転じた例は、寡聞にして聞いたことがない。 そんな異能人材が、なぜソニーに入ったのか。
「批評能力は表現能力に勝る」 これは大賀氏の持論だ。だからこそ評論家という職業が成り立つ。そして大賀氏はこう考えた。 「表現能力の優れた自分が自分の声を聴いて批評すれば、歌手としてさらに上にいける」 そこで大賀氏が目をつけたのが、ソニー(当時は東京通信工業)の「G型テープレコーダー」だった。 G型はソニーが1950年に発売した日本初のテープレコーダーで、その価格は16万円。当時の大卒初任給が6500円だったことを勘案すると、現在価格では約500万円となる。大賀氏はこの高価な機械を芸大に購入させるため、その前段として貸し出しを受けた。 ところがいざG型に自分の声を録音して聴いてみると、音質が悪くて使いものにならない。そこで大賀氏はクレームをつけるためにソニーに出向いた。ただし、単なるクレーマーではなかった。 大賀氏は中学卒業後、肋膜炎を患い、一時療養生活を送っていた。その時家庭教師を買って出たのが、岩井産業(のちの日商岩井、現双日)創業家一族の岩井一郎氏だった。岩井氏は東京大学工学部電気工学科出身だったため、電機回路の基礎知識を大賀氏に授け、電気製品を2人で分解し、その原理を教えた。 このようにして電気工学の知識を身に付けていた大賀氏は、ソニーに対して具体的な改善策を突きつけた。恐らくソニーの技術陣は面白くなかったはずだ。「芸大で声楽を学んでいる学生が何を偉そうに!」と。 そんな大賀氏を面白がったのが、ソニー創業者の井深大氏だった。 ■ 創業者の井深大、盛田昭夫両氏に目をつけられた「経営の才能」 井深氏は早稲田大学在学中には「天才発明家」として知られており、ソニーという会社自体、発明家・井深氏の夢と理想を実現するために生まれた会社だった。その井深氏が大賀氏に目をつけた。 2人は意気投合。大賀氏はユーザーの視点からさまざまな意見を具申し、井深氏はその注文に最大限応えていく。さらには学生の大賀氏と嘱託契約まで結んでいる。芸大卒業後のドイツでの留学費用もソニーが負担した。 とはいえ、ここまではアドバイザー契約のようなもの。大賀氏はソニーに具申はしても実務に携わっていたわけではなく、あくまで本業は声楽家だった。 その関係が大きく変わったのは1959年のこと。この年、井深氏とソニーのもう一人の創業者・盛田昭夫氏、そして大賀氏の3人はヨーロッパとアメリカを結ぶ船の中にいた。船旅は約1週間。その間、逃げ場はない。この時間を利用して、井深・盛田両氏は大賀氏にソニーに入るよう説得した。 最初は固辞していた大賀氏だったが、「二足のわらじでいいじゃないか。音楽のことは分からんが、君に経営の才能があることは僕が保証する。29歳の今から経営を学べば、40前に経営のことが分かってくる」との盛田氏の言葉に、「そこまで言ってくれるなら」とソニー入りを決意する。 入社と同時に大賀氏は第二製造部長に就任し、テープレコーダー事業の責任者となる。このことだけでも、大賀氏への期待の大きさが分かる。しかもすぐにデザイン室と広報部も担当する。 この時以降、大賀氏が2001年に取締役を退任するまで最も力を注いだのが、ソニーのブランドイメージをいかに向上させるかだった。その一例が「S・O・N・Y」の4文字からなるロゴマークだった。 東京通信工業がソニーへと社名変更したのは1958年だが、55年からSONYのロゴは使い始めていた。最初は縦長だったが、57年に現在のデザインにつながる横長になった。そして大賀氏がソニー入りしてから、61年、62年、69年、73年と、4度にわたる細部の変更を経て、現在のデザインに落ち着いた。それとともに商品デザインでも、スタイリッシュさを追求した。 かつて「ソニープレミアム」という言葉があった。これは同じスペックの商品でも、ソニー製なら高くても売れるという現象を示したもの。それも、大賀氏がデザインを含めて徹底してブランド戦略に取り組んだ成果だった。