「健康なクズ人間から臓器を取れ!」というメチャクチャな主張が正しいとされかねない「哲学の大問題」
クローン人間はNG? 私の命、売れますか? あなたは飼い犬より自由? 価値観が移り変わる激動の時代だからこそ、いま、私たちの「当たり前」を根本から問い直すことが求められています。 【写真】「健康なクズ人間から臓器を取れ!」という主張が正しいとされかねない? 法哲学者・住吉雅美さんが、常識を揺さぶる「答えのない問い」について、ユーモアを交えながら考えます。 ※本記事は住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。
功利主義の「罠」
そもそもは貴族だけでなく、社会のあらゆる立場の人々がこれまでより幸せになって、それによってみんなの幸福の総計が最大になるように、という博愛主義から出てきた功利主義の思想であった。 しかし、その思想を政策で実現しようとなると、どうしても限られた予算や財ゆえに、社会の目的や福利を得る人についての優先順位がつけられ、もっと余裕がない場合には誰かの、そして何かの切り捨てが行われることを許してしまう。 前述のヴァージニア断種法の例にも見られるように、国力を上げるという目的のために有益な子孫を増やすという政策は、それに反すると見られる子孫の誕生を不可能にするという差別につながった。 そもそも国力とは何なのか、単なる富国強兵だけなのかという点にも疑問があるが、とにかく一国の政治が多様性への寛容さを失い特定の目的に向かって突き進む時、功利主義は博愛主義から差別と切り捨ての思想に変わってしまう。 この側面を見て、第3章でも触れた現代正義論の祖であるロールズは、功利主義は個人の権利尊重に敵対する思想であると厳しく批判した。 しかし、こうなってしまったのはベンサムのせいではない。「最大幸福」はもともと多様な人々の多様な幸福の集積であるべきであったのに、現代政治はそこに経済成長とか生産性とか軍事力とか、特定の内容を入れ込んだからこうなったのである。
功利主義と「選別思想」のあいだ
優れた頭脳と運動能力をもつ人々が、内臓に致命的な疾患をもっている。なんとか健康になってその能力を国家のために発揮してほしいのだが、移植できる健康な臓器のストックがない。 そこで政府は国民を見わたし、健康な肉体を有しているがこの国にとって生かしておく価値がないと思われる犯罪者やクズ人間をリストアップした。それらの人々を生かしておいても税金の無駄遣いなので、健康な内臓を取り出して、有益な病人たちに移植しようと考えたのだ。 1人から心臓、肝臓、目、腎臓、骨髄を取り出し移植すれば、5人を生きながらえさせることができる。生かされた人々は政府に感謝して、その後の人生を国家のために捧げてくれるだろう。一方で国家のために何の益もない税金の無駄遣い連中は死んでくれるし、めでたしめでたし……ということになったらどうだろうか? これはイギリスのジョン・ハリス(1945─)という倫理学者が提起したたとえ話に私が少々味付けしたものだが、単なる絵空事と割り切れるだろうか。 もちろんこの例は、医療技術が発達して人から人への臓器移植が必要なくなる時代を迎えれば無効になる話であるが、問題はそこではない。国家目的と功利主義とを結びつければ、一人一人の人権をすっ飛ばして国民を選別することも肯定される点が問題なのである。 しかし、さらにこういう提案もありうるだろう。選別が差別でけしからんというならば、皇族も総理大臣も財界の大物もスーパースターも死刑囚も、とにかく国民すべてが一斉にくじを引いて、当たった人が否応もなく臓器を取り出される、というのではどうか? 万人相手のくじだから差別にはならない、と。たしかに表向き差別ではないが、明らかに人間が臓器の詰め合わせ、つまり物と見られているのである。それでよいのだろうか? 人を、幸福を感じる「主体」としてではなく、幸福最大化のための「手段」として捉えはじめた時に、功利主義は冷酷な選別思想へと一転する。そもそも人によって価値観が異なるのに、万人に共通する幸福の内容を決定することはできないし、それができる資格をもつ者もいない。 それがわからない人間が政治家になって、なんちゃって功利主義を振りかざしながら「LGBTは生産性がない」とか「LGBTが増えると国が滅ぶ」といった愚かな発言をドヤ顔でするから困ったものである。 功利主義は、私たちが直観的に理解しやすい発想なので、強力な論理として社会を支配している。博愛主義から差別・迫害まで、白にも黒にもなる便利な哲学に対して、あなたはどのように向き合うか? さらに連載記事<女性の悲鳴が聞こえても全員無視…「事なかれ主義」が招いた「実際に起きた悲劇」>では、私たちの常識を根本から疑う方法を解説しています。ぜひご覧ください。
住吉 雅美