渡邉恒雄という男の「すさまじい政治手腕」の実態…その日、ナベツネに野中はひれ伏した
1998年、秋のある日
読売新聞グループの本社代表取締役主筆の渡邉恒雄氏が、12月19日、亡くなりました。 【写真】渡邉恒雄氏と徳仁皇太子夫妻 読売新聞記者としてキャリアを歩み、時の政治の「記録者」として活躍したのはもちろん、折々に政治の「プレーヤー」としてふるまったことでもよく知られています。 では、実際のところ渡邉氏はどのような生涯を歩み、なにをなしたのでしょうか。 彼の生涯と業績、そして功罪の全体像を知るのに最適なのが、ノンフィクションライター・魚住昭氏による『渡邉恒雄 メディアと権力』です(単行本の刊行が2000年。現在は講談社文庫で読むことができます)。 綿密かつ膨大な取材によって掘り起こされた数々のエピソードからは、渡邉氏の強烈な個性がにおいたってくるようです。本書は私たちに「日本の戦後政治とはなんだったのか」をおしえてもくれます。 たとえば本書は、1998年秋のとある会談についての描写から始まります。 このとき政界は、自民党と自由党の連立政権をつくるか否かが大きな問題となっていました。連立を推進すべく動いたのが渡邉氏です。その影響力は、「影の総理」と言われた野中広務氏が平伏するほどのものでした。 『渡邉恒雄 メディアと権力』より引用します(読みやすさのため、改行や数字の表記を編集しています)。 *** 東京・霞が関の官庁街から愛宕通りを南へ数百メートル下ると、右手に青松寺という由緒あるお寺がある。読売新聞社長の渡邉恒雄が、その境内の入り口にある料亭「醍醐」の暖簾をくぐったのは1998年11月18日夜のことだった。 そのとき彼はいつになく上機嫌だったらしい。というのも、彼の持論である自民党と自由党(旧新進党)の連立政権づくりが軌道に乗り、翌日の両党首階段で合意に達する見通しが出てきたからだ。この夜の会合の相手も自自連立の一方の当事者、官房長官の野中広務だった。 複数の関係者の証言によると、渡邉は野中と顔を合わせるなりこう切りだした。 「あんたは『小沢(一郎・自由党党首)さんにひれ伏してでも一緒になりたい』と言ったそうだが、このまま両党が対立していたら日本政治がだめになる。過去のいきさつは水に流して政局を安定させなければならん」 それまで渡邉と野中は、知る人ぞ知る犬猿の仲だった。とくにこれより3年前、野中が「マスコミは行革を叫ぶ一方で自分のところ(の再販制度)だけは守っている」などと新聞を批判して以来、日本新聞協会の再販対策特別委員長をつとめる渡邉との関係は悪化していた。 だが、この日の野中の態度は明らかにこれまでとはちがった。 「先生のご意見は、よくわかっております」 そう言って恭順の意を示した後、 「いろいろ誤解を招くような言動をして、ご不快を感じられたでしょうが、たいへん申し訳ない。あなたの誤解をとくためならどんなことでもします。ほれ、この通り」 と、渡邉の前でひれ伏したという。 元首相中曽根康弘の側近が醍醐階段の内幕を明らかにする。 「実は、あれはツネ(渡邉)さんと野中さんの和解のために設けた席だったんです」 この「手打ち式」には、野中側の「見届け人」として元首相竹下登の元秘書で参院自民党幹事長の青木幹雄(官房長官)、渡邉側として中曽根の腹心で渡邉とも親しい元通産省の中尾栄一が立ち会った。 「そもそも二人を合わせようと言いだしたのは中曽根さんなんです。中曽根さんが『ツネさんと野中はマスコミと政府の代表だから和解するべきだ』と中尾さんに言った。そして中尾さんが野中さん側と連絡して会談をセットした。それが真相です」(中曽根の側近) それにしても「影の総理」とまでいわれた野中がなぜ、自自連立工作のまっただ中に渡邉に平身低頭しなければならなかったのか。裏で動いた中曽根や竹下側近の思惑は何か。