渡邉恒雄という男の「すさまじい政治手腕」の実態…その日、ナベツネに野中はひれ伏した
「チャンスは俺らがつくるよ」
自自連立の発端は'97年4月、沖縄の駐留軍用地特別措置法改正案で自民党と、小沢が率いる新進党(当時)の連携が成立したことだ。このとき生まれた保保連合の芽を育てるため、渡邉は盟友の中曽根と二人で小沢との接触を繰り返した。一時は財政再建問題をめぐって渡邉と小沢の関係が冷え込んだこともあったが、それも中尾ら中曽根側近の奔走で修復された。 平河町の砂防会館事務所で中曽根が振り返る。 「ナベツネさんと二人で小沢君とは何回も会ってますよ。それで小沢君の思想を確かめ、彼を激励し、また現実的な歩みを暗示した。その意味で彼にひとつの確信というか、断行する勇気を与えたと思うね」 自自連立の最大の障害は小沢と旧竹下派、とくにかつて小沢を「悪魔」と罵った野中との対立だった。 「人間的な愛憎で動くのがいちばんいかんのだと二人で小沢君を説得した。冷たい戦争が終わって米ソの磁力が切れて、鉄くずが散乱した。日本もその鉄くずの一つで、そのうえ、55年体制が金属疲労を起こして自民党が分裂した。 以来、弱小政権が何代もつづいて外国にバカにされ、景気は悪くなるという状況がずっとつづいていた。これを救うにはまず根本のねじれを直せと。今、自民党が社民やさきがけと組んでいるのは政権のためだけだ。国家の歩みの話とは別だ、それを直さなくちゃならないとね」 そのとき小沢はこう答えた。 「それはわかるけれども、そういうチャンスがないんだ」 「チャンスは俺らがつくるよ」 中曽根はそう言って、渡邉とともに自自連立への歩を進めていった。 '98年7月の参院選で自民党が惨敗。議席数は104に減り、過半数を大きく割った。国会運営は行き詰まり、金融再生関連法案ではやがて「野党案丸のみ」という前代未聞の事態に追い込まれることになる。8月に入って中曽根は衆院本会議場の最後列で、隣に座る竹下とヒソヒソ話を交わした。 「竹下君、もう限界だね。この次は景気の問題もあるし、それからガイドライン(日米防衛協力のための指針)がある。金融と税制とガイドラインの問題でもう限界が来た。秋には自自公でいかなくちゃいかん。そうしようや」 「そうですね。ガイドラインの問題を考えると、まさにそういう時期が来ますね」 「それじゃ、きみ、小渕(恵三)君に言ってくれよ。まず自自をやろう。公明党は(1999年春に)地方選挙が終わってからだ」 '98年8月下旬、元建設相の亀井静香の仲介で小沢と野中の極秘会談が実現し、連立への動きが加速した。小沢にしても、新進党解体で創価学会や労組の支持を失った。次の総選挙で自民党と保守票を争っても勝ち目がない。ジリ貧の党勢を一気に逆転するには自自連立の選択肢しかなかった。 渡邉や中曽根の動きが激しくなったのは10月中旬ごろからである。小沢の尻をたたく一方、もともと保保連合論者だったが元官房長官の梶山静六や亀井らと会談し、自自連立への環境整備を急いだ。大手マスコミの政治部長が言う。 「('98年)11月19日に両党の合意が成立する直前にも、渡邉が小沢と小渕首相に電話して『ここまで話が進んでいるのだから成立させるべきだ』と決断を迫ったようだ。最後の後押しというところだろう。12月に両党の政策合意でもめたときも、渡邉が裏で収拾に動いたと聞いている。彼が小沢と小渕を説得するキーマン的役割を果たしたことは間違いないだろう」 こうしてみると野中が渡邉にひれ伏した理由も明らかになる。つまり自自連立の成否に政権の運命をかけざるを得なかった野中にとって渡邉は「恩人」となった。これではいくら誇り高い野中でも渡邉の期限をとらざるを得ない。大手マスコミの政治部長がつづける。 「渡邉らが果たした役割はそれだけではない。同じ『保保派』でも梶山と亀井の思惑はまったくちがうから足並みがそろわなかった。梶山は若い同志たちと本当の救国内閣をつくろうと考え、亀井グループは自派の勢力を拡大してYKKに対抗する勢力をつくろうとした。 そこを束ねて重石になったのが渡邉と中曽根。とくに渡邉は読売1000万部の紙面で流れを一定方向に向ける役割を果たした。それに、反自自連立派を抑えるうえでも1000万部の影響力はきわめて大きかった」 *** '90年代の政界において、渡邉氏がもっていた強烈な影響力、そして彼の政治的な立ち回りの異様なうまさが垣間見える一節です。 さらに【つづき】「渡邉恒雄氏が若かりし日、「戦場」に持っていった「意外な書籍のタイトル」」の記事では、渡邉氏の若かりし日のエピソードを紹介しています。
魚住 昭(ノンフィクションライター)