西武・松井稼頭央が引退会見。野手転向、スイッチ、MLB…「永遠の挑戦」
西武の松井稼頭央外野手(42)が27日、埼玉所沢のメットライフドームで引退会見を行った。投手から野手転向、スイッチヒッター、日本人内野手として初のメジャー移籍など、その日米25年間の野球人生は、「挑戦」の2文字に集約された。「日本一になって花道を飾る」。それが引退をかけた最後の挑戦。将来の監督候補としても松井の挑戦は永遠に続く。
導かれた運命だったのか。 この日、選手登録された松井稼頭央は、背番号「7」のユニホーム姿でメットライフドームの一塁側スタンドの裏あたりにある施設の広い会見場に現れた。 「ここ数年は、毎年、毎年、勝負と思ってやってきた。楽天退団、古巣(の西武)に声をかけていただき、最後の勝負の年かなと思って1年過ごしてきた。抹消となり、そこで初めて自分と向き合う時間、考える時間があった中、そろそろ引退かな、辞めるときがきたのかなと。球団に相談、お世話になった人に報告。悩んだが、とうとう、このときがきたなと、自分の中で感じて引退を決意した」 9月15日に登録抹消となり、それが引退を考えるきっかけとなった。今季の試合出場は24試合でヒットは4本。1番から9番まで切れ目のない強力西武打線の中で、兼任コーチとしての役割の方が大きくなっていた。 「ここで生まれ、ここで育ち、最後は、ここで辞めたいと考えていた。これも運命。チャンスをいただいたライオンズへは感謝しかない」 昨年オフに楽天から“戦力外通告”を受け、1993年にPL学園からドラフト3位で入団以来、10年間を過ごした西武に15年ぶりに復帰したが、その時点で、最後の勝負との覚悟はあったという。 「思い残すことはいっぱいある。それが引退ってことなのかと。やりきったとは言えない。決断をするときは、こういうときなのかなと、あらためて考えさせられた」 引退会見での定番とも言える「やりきった」とのフレーズを否定した。 25年間「挑戦」し続けてきた松井らしい言葉だった。 「高校時代は投手、プロで野手になり、常に勉強、チャレンジしていたという記憶しかない」 PL学園からピッチャーとして西武へ入団したが、すぐに野手に転向。右打者だった松井は、当時の打撃コーチだった谷沢健一氏のアドバイスもありスイッチヒッターへ転向した。プロ1年目は1軍出場はゼロだったが、東尾修氏が監督に就任した1995年に転機が訪れる。 「2年目から東尾監督に抜擢していただいた。東尾監督との出会いがないと今の僕はない」 1995年4月9日の日本ハム戦で芝草宇宙からプロ初打席、初安打、初打点。この日、会見で、日米通算2703安打中、最も印象に残っているヒットは?と聞かれ、その打席を挙げた。 「小さい頃からプロを目指してきて、そのプロになれて1軍で打席に立たせてもらった原点だ」