計算通りにはいかないことの豊かさを描けたらいい――小林武史が約9万坪の農地で開催するフェスで描くSDGs
Mr.Childrenのプロデュース、そして大ブレークへ
1959年、山形県新庄市に生まれた小林は、5歳でピアノを始め、20歳の頃に東京でスタジオミュージシャンとして活動を始める。70年代末から80年代初頭にかけて、時代はバブル景気を目前にしていた。 「当時のスタジオミュージシャンは、田中康夫さんが書いた小説の『なんとなく、クリスタル』の主人公のようなおしゃれな職業の象徴でした。そんな時代だったこともあって、レコーディングスタジオに居場所を作ったのがキャリアの始まりになっている。でも、その頃からカウンター的な思いを持って音楽活動をやっていました。ジョン・レノンの影響も大きかった。上の世代の学園紛争も見て育ってきた。そういうものが根っこにあるんです」
キャリアの転機となったのは桑田佳祐との出会いだった。1987年、小林は桑田佳祐のファースト・ソロ・シングル「悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)」の編曲やサウンドプロデュースに参加。続いて参加したファースト・ソロ・アルバム『Keisuke Kuwata』が大きな評価を集めたことにより、プロデューサーとしての地位を確立していく。 こうして引く手あまたの存在になっていった小林が「新人のバンドをやってみたい」とデビューからプロデュースに携わるようになったのが、1992年にメジャーデビューしたMr.Childrenだった。「必ずしもメジャー志向を全開に見せているわけではなく、ちょっと暗めのバンドという印象だった」というMr.Childrenは、結果的にメガヒットを量産し、日本を代表するモンスターバンドとなっていく。 「最初から『この道だ』ということが明確にあったわけではなかった。時代の狭間に僕もいたし、ミスチルもいて。そこでいろんなものを吸収していく土壌があったのかもしれないですね」
9・11、WTCは自宅から2キロの距離にあった
小林が30代後半に差し掛かった90年代後半は、CDが最も売れていた時代だ。自身もメンバーとなったMy Little LoverやYEN TOWN BANDのプロデュースも手掛け、希代のヒットメーカーとして不動の地位を築いた。しかし、その一方で、経済合理性が全てに優先し、大量生産と大量消費を余儀なくされる社会の仕組みに疑問も持ち始めていた。そんな中、小林は、2001年、アメリカ同時多発テロ事件に直面する。 「9・11の衝撃は大きかったです。その時は東京のスタジオでMr.Childrenのレコーディングをしていたんですけれど、『ニューヨークがすごいことになっている』と言われて、テレビをつけた。住んでいた自分の家は、ニューヨークのワールド・トレード・センターから2キロくらいしか離れていないところにあった。窓からビルが全部見えるくらいの近さで、当時ニューヨークにいた家族は2機目が突っ込んでいくのもビルが崩れるのも全部目撃している。その後にすぐ連絡がとれなくなって、どうやって僕がニューヨークに戻ったのか、もう覚えていないですね。カオスのような日々でした」 この時に感じたことが「ap bank」設立につながる大きなきっかけとなった。 「エネルギーの奪い合いから生じるいろんな人たちの思いや憎しみがテロを生んだわけなので。日本では対岸の火事のように思っている人が多かったかもしれないけれど、本当につながっているということを感じたんです。身近なところから地球環境まで全部がつながっているという実感があったんですね」