「浅田真央さんのトリプルアクセルから始まった」中継担当者が語る、勝ち負けだけではないフィギュアスケートの魅力
文=松原孝臣 撮影=積紫乃 ■ フィギュアスケートは勝ち負けだけではない フィギュアスケートの放送にあたり、当初は採点競技であることへの不安もあった近藤憲彦だったが、やがてフィギュアスケートならではの魅力を発見していった。 【写真】2004年12月26日、全日本選手権、右から2位の浅田真央、1位の安藤美姫、3位の村主章枝 写真=日刊スポーツ/アフロ 2013年3月、ゴールデンタイムで放送した世界選手権は生中継ではなかった。すでに結果は日中に出ていた。にもかかわらず、例えば女子フリーは平均視聴率17.0%、瞬間最高視聴率26.0%に達した。 「フィギュアスケートは勝ち負けだけではなく、勝敗や結果が分かっていたとしても演技やアスリートたちの表情、会場の雰囲気が観たい、そういう特別なスポーツなんだと感じました」 フィギュアスケートを毎年放送する中で、フジテレビは次の一手として体操の世界選手権の放映権獲得に動いた。 「フィギュアスケートを始めたとき、採点競技であることへの不安がありました。でも、フィギュアスケート中継を続けていく中で、視聴者のもっと知りたいと深く深く入り込んでいく知識欲の高まりを強く感じました。そこで日本代表が強く、オリンピックでは〝お家芸〟として注目を集める同じ採点競技の体操の放送にも挑戦しました」 近藤は2008から総合スポーツ情報番組「すぽると!」の編集長となり、大会中継のプロデューサーとしては役割を終えた。現在は株式会社フジ・メディア・テクノロジーに籍を置くが、今日もなお、フィギュアスケートに携わる。 その核をなしてきたのが浅田真央だ。
■ トリプルアクセルという十字架 「浅田真央さんとの出会いは、2004年新横浜で行われた全日本選手権、14歳の少女の演技を見て大きな衝撃を受けました」 そこで浅田はトリプルアクセルを見事に成功させ、ジュニアのカテゴリーの選手ながら2位と表彰台に上がり、注目を集めた。 「そこから大須に幾度と取材で通いました」 大須は当時、浅田が拠点としていた名古屋市内のリンクだ。 「山田満知子先生、樋口美穂子先生、姉の舞さんやお母さんもいて、取材に行くと『一緒にご飯を食べませんか?』と言ってくださるなど、我々取材陣に対してとても親しく接していただきました」 以来、交流を続けてきた。 「2008年ののちも毎年、できるだけ全日本選手権と世界選手権には行っていました。もちろんバンクーバーオリンピックとソチオリンピックにも追いかけて(笑)行きましたね。節目節目で浅田真央さんの特別番組も作らせてもらいました」 2014年3月24日、ソチオリンピック閉幕直後には、約1年にわたって浅田を追い、帰国した日にもフジテレビで収録を行ったうえで当日の夜、「金曜プレステージ・独占! 浅田真央 誰も知らなかった笑顔の真実」特番を放送。 2017年4月10日、浅田が引退を発表した翌々日の12日には独占インタビューを交え、「浅田真央26歳の決断~今夜伝えたいこと~」を放送した。 「『フジテレビさんだったらいいですよ』と言って快く出演していただきました、心から感謝しています」 長年積み重ねてきた時間があっったからこそだろう。 あらためて、浅田の魅力を尋ねると、こう答えた。 「やっぱり演技は美しい、中でも彼女のスケーティングが好きです。小さな頃から長い期間、彼女の笑顔、そして人前で見せることが少ない涙も見てきました。ジャンプが跳べないで苦悩している姿も練習リンクで何度と見ました。浅田真央さんはトリプルアクセルに対するこだわりが強いので、調子が悪くても自らの使命感としてあえてチャレンジすることもありました。トリプルアクセルという十字架を背負って演技する姿からは凄まじい迫力さえ感じました。とても芯が強いアスリートです。ちょっと特別な存在ですね」 すると、こう続けた。 「これは僕が勝手に想像していることですが、近い将来、オリンピックのキスアンドクライで選手の横に座っている笑顔の浅田真央コーチ、そういう場面が見たいなぁ、と思っています」 そこにはささやかな根拠もある。